夜、弟から少し長めのメールが来た。

思い切って、私のためにと心を込めて、彼がメールを打ったのが伝わってきた。

それは、彼が信仰している宗教の大きな法要へ立ち会うことへのお誘いだった。

多分、生涯に一度あるかないかのとても大きな功徳が頂ける法要(・・と彼らは信じている)なのだろうと思う。


弟をその宗教に誘ったのは私だった。今から25年も前のことだ。

私は16年続けたその宗教とは縁を切った。

そのとき弟はものすごく動揺したのだけれど、結局彼はそこからは離れなかった。


宗教はマインドコントロールだ。日本語で言えば洗脳だ。

そこにどっぷり浸かっていたからこそ、私にはそのことが本当によくわかる。


やっかいなのは、洗脳の下にあるのが善意だということだ。

弟の場合も、心の底から私が幸せになってほしいと思ってくれているのが、彼のメールからは伝わってくる。


私の場合は、自分がその洗脳下にあったときも、自分の魂が「No」と言っている声をひそかに聞き続けていた。

それを押し殺し、封じ込め、それでも感じる違和感と戦いながら、私は宗教の名の下に自分や家族が幸せになる道を模索し続けてきた。


しかし長い時を経て、魂の声がその違和感を打ち破り、もうどうにも隠れてくれなくなったときに、私は自分を縛っているものと正面から向き会うことになった。

いくら善意がそこにあろうとも、いくら愛がそこに存在しようとも、コントロールは人間の自由意志を奪うものだということにはっきり気が付き、もうその場所には戻れなくなったのだ。



それでも私は、宗教を選択している今の弟の意志を尊重している。

たとえそれが洗脳下にあるものだとしても、その場所を離れるのは弟自身でしかないことがわかっているからだ。


寂しさゆえにその教えに繋がれた彼を包み込む愛は、姉である私のものだけでは足りなかった。

もし・・というのはタブーかもしれないが、もし母の弟への愛が宗教でもたらされる愛よりも深かったならば、弟は今夜私にメールを送ってくることはなかったのかもしれないと思う。


それでも、その母親を選んで生まれてきたのは弟なのだ。

全てが自分の意思の下でなさるのだとすれば(たとえそれが無意識レベルであるにしても)、母親に受け入れてもらえない悲しみゆえにその宗教に自分を委ねる選択でさえも、彼の望みなのだと受け入れるしかないのだと私は思う。



私は弟に、きっぱりと断りのメールを打った。

私の信仰しない自由を認めてほしいとお願いをした。



弟からの返信はない。

多分、淡々とした私の文章に、彼は悲しい思いをしたのだと思う。そして私を哀れんでいるのだと思う。



私は、自分自身がかつて宗教団体の中に身を置いた事を、私のできうる限りで有効に使いたいと思っている。

コントロールすること・されることの恐ろしさと、自分を何者かに委ねることの悲しさを身をもって体験したからこそ、自主独立した存在でいることの素晴らしさがよりわかる気がするからだ。



宗教だけに限らない。

スピリチュアルの世界も、マルチ販売の世界なども同様だ。

何者かを崇めたり、ヒエラルキーの一部となることには、いつも自由意志を手放す恐ろしさが影に潜んでいることは疑いようがない。


いつも自分を尊重する自分でいたいと思う。

魂の声に忠実に生きていきたいと思う。



そう生きることだけが、自分も他者をも大切に尊重できる人間でいられる唯一の道なのではと思うのだ。




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