きょう、昨年の7月から通っていた英語の個人レッスンをやめた。

昨夜ひとりで時間を過ごしていたら、ふいに「やめる」というインスピレーションがやってきたのだ。

私は自分自身が英語を教えるという仕事をしているのだが、自分の英語力には満足していなかった。

私が使える日本語の能力と比較すると、到底まだまだな英語力はある意味常にコンプレックスの元でもあった。

個人レッスンの先生はネイティブではなかったのだが、下手なネイティブの外人講師より教える熱意も知識もスキルもレベルが上だと私は感じていて、一時間の集中した英語のみのレッスン時間が、私には楽しくてならなかった。

楽しいものを断捨離するというのは、ある程度予想してはいたのだが、やはり心が痛む体験だった。

先生も、私とのレッスン時間を心から楽しんでくれていたのを知っていたので、彼が突然の私の申し出にショックを受けていたのがわかり、そのことも心が痛くなる一因になった。



そんな楽しい英語レッスンを、なぜ私は断捨離したのか?・・きっと不思議に思う人もいるだろう。

それは、英語レッスンを始めた私の動機が、今の私にはもう古いものとなっているのに気付いてしまったからなのだ。



私が英語を勉強し始めたのは、今年20歳になった二女がまだ0歳のころの事だった。

日々成長し、昨日できなかったことがきょうはできるようになる赤ちゃんを育てていることは喜びだったのだけれど、きょうも明日も同じ主婦で、何一つ発達していくことがない(・・と、当時は思っていた)自分がとても悲しくなった。

加えて、本当の自分から目を逸らせて生きていた私は、何か他から評価されることで自分を証明しないと、自分を肯定できないと固く信じていた。

子育てをしながらの「ながら勉強」が主だった私の英語力アップはなだらかな曲線しか描かれてはいなかったが、それでも「石の上にも3年」どころか、十数年をそうして過ごすうちに、気付けば英語でお金を稼ぐ事ができるくらいにスキルアップはしていたわけだ。


しかし、TOEICの高スコアや英検1級など、普通には「英語ができる」とみなされるスコアや級をとっても、私は満たされることがなかった。

海外経験もないし、大学受験をしなかったから文法は苦手だし・・と、いつも自分を卑下するモードで英語と関わってきた。

だから私には更なるスキルアップの場が必要で、より高い英語力を身につけるための投資をすることで自分を認めることができる・・・という図式が出来上がってしまっていたのだ。

またそうしているからこそ、自信を持って「私は英語を教えています」と言える自分をキープしていたことは否めない。



昨夜ふいに、「もうそれらはいらない」と思った。

私の英語が必要十分なレベルになったということではなくて、「私はもう自分を英語で証明する必要はない」と心から思ったのだ。


一つ前の記事に書いた「『今この瞬間』への旅」を読んだ事で、私の中の何かがほどけていくのを感じている。


奇しくも、英語教室も春には娘に譲る事が決まっているし、私と英語との関わりは本当の意味で新しいステージに移行するのかもしれない。


私の自己証明の代名詞のようだった「英語」が、私の執着の手から離れ、本来の機能を取り戻し、これからは私を更に広い世界に連れて行ってくれるためのツールになるのかもしれないと思う。


自分に足りないものを探すことはもうやめだ。

今ここに私が持っているものを愛し、それが必要なら使い、誰かとシェアする幸運があるならそれを喜び、私は生きていきたいと思う。



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