金曜日の午前、普段かかってくることのない親戚から電話があった。

夫の叔父の訃報だった。

すぐに夫と義姉に連絡を取る。

その間にもやもやと立ち上がってくる不安と、なんとも言えない嫌な感覚。

あ~、まただ!また私はあの嫌な体験をしなくてはならないのか・・。




もう4年も前のことになる。

その時も夫の叔父の通夜の前日だった。

同じように訃報を受け、夫と義姉に連絡を取り、私はどう動けばよいかを相談した。

その日は私も仕事があり、叔父の家は能登だし通夜も翌日だということで、その日宿直だった夫と私は翌日早くに叔父の家に弔問に向かうことにしたのだった。


翌日、まだ夫の叔母や叔父しか集まっていない家に入り、何か手伝うことはないかと尋ね台所に私は入った。

葬儀はセレモニー会館で行われることになっていたが、能登の風習の名残で、簡単な食事やおにぎりを作る仕事がそこにはあった。

叔母に言われた通りおにぎりを作り始めていたら、おもむろに叔母の一人が私を厳しく叱責し始めた。

私が亡くなった義母の長男の嫁なのに、なぜ昨日のうちに飛んできて手伝いにこなかったのか?!と。

私の立場は他の人とは違って、真っ先に手伝うために奉仕しなければならない存在なのだと、私が泣くまで攻め続けた。


私は義姉にどうすればよいかと、ちゃんと相談していた。

実はその家がどこにあるかもよくわからないくらい、ほとんど行き来がない状態の叔父の家だったのだが、行かなければならないのなら行くつもりでもいた。

しかし、義姉も夫もその必要がないからというので、それに従ったのだ。

多分、甥や姪の立場のほかの人たちも、だれもその日は弔問していなかったはずだった。



私の様子がおかしいことに夫は気づいたが、どうすることもできず、彼はほかの叔父たちと葬儀の手はずについて話し合っていた。

きつい言葉を私にぶつけ続けた叔母も、ほかの人が台所に入ってきたらそれを止めた。

一緒にいたもう一人の叔母は、普段から言葉のきついその叔母とは違って優しい人なのかと思っていたのだが、黙って私が泣かされるのを見ていた。彼女も同じことを思っていたに違いなかった。



そのほんの3か月前に、義母が孤独死をしていた。

多分叔母たちは、大切な姉が一人で死んだのは、嫁の私が同居していなかったせいだと私を恨んでいたのだと思う。

そのときの鬱憤を私にぶつけるよい機会を得たと思ったのだと思うのだ。



私は、自分の失敗を取り戻さねばならないと思い、通夜の日も葬儀の日も、まるで女中のように働きづづけた。

その姿を見ていた叔母たちは、最初に言い過ぎたと思ったのか、葬儀が終わったころには私の機嫌を取るかのごとく色々と言葉をかけてきた。


全てが終わって、帰途に就くため車に乗り込んだ途端、私は夫の膝に突っ伏して号泣した。

何故私がこんな目に合わなければならないのか、理不尽で悲しくて情けなくて、泣けて泣けてしょうがなかった。

夫はただ「ごめんな。ごめんな。」と言うばかりだった。



当時私は、東京のノウイングスクールに通っていた。

その衝撃的な出来事の翌日、スクールでゲリーに事の次第を話した。

何故こんなことが起きるのか?私はこの気持ちをどうすればよいのか?とゲリーに尋ねた。

彼は、すべては私が作り出している世界なのだと言った。

私が私の自己価値を承認していないから、自分が人の感情のゴミ箱になっても仕方がないと思っているから、それが現実化して現象を起こしているだけなのだと言うのだ。

だから、あんなにひどいことを言った叔母も、それは私の鏡としての言動を見せてくれたのだから、いくらでも覚醒することも可能なのだと、これまたショッキングなことを私に話すのだった。



「もし、もう一度同じことが君の身に起きたとしたら、君は自分自身を恥じなければならないよ。」

ゲリーの言葉は、にわかには受け入れがたいものだった。

しかし、その衝撃的な言葉は、私の心にカウンターパンチのように効き、それ以降の私の人生を大きく変えていくきっかけとなってくれたのだった。




そして、またあの時と同じように叔父の訃報が届いたのだった。

頭ではしっかりわかっていた。

私が私の世界を作っているのだと。

でも、どうしようもない恐怖と不安が浮かび上がってくるのだった。

以前の出来事が、それほどにもトラウマになっていたのかと、正直驚いた。



このままではいけないと思った。

ありがたいことに、ちょうど通夜に出かける日の午前中に、美鶴さんとのスカイプセッションを入れることができた。

何が起きているかを話し、以前ゲリーに言われたことも話した。

美鶴さんは、以前の私と今の私は全く違っているのだということを教えてくれた。

それでも浮かんでくるこの恐怖心は、過去に抑え込んだ怒りや嘆きが浮かび上がってきているからで、それを叫ぶか何かで発散すればすっきりするはずだとアドバイスしてくれた。

しかし、しばらく彼女と話しているうちに、起きる現象によってこそ、私は何を自分自身に制限し、何に罪悪感を持ち、どれほど自分を認めていないのかを知れるのだということに、しみじみと感謝の念がわいてきた。

あえて憎き敵役を務めてくれている叔母に対して、深い感謝の念が湧き、涙が出てきた。

彼女があの時、あれほど私を罵倒してくれたからこそ、私は自分がどれほど自分に罪悪感と嫌悪感を持ち、自己否定していたかを知ったのだ。



気づくと、抑え込まれていたはずの怒りも悲しみも消えていた。

叫ぶまでもなく、そこに沸いた感謝と感動の気持ちが、それらを帳消しにしてくれていたのだった。



私は私に尊厳を持ち、自分を愛し、通夜に向かった。

不思議ともう何も怖くはなかった。



状況は以前とほぼ同じだったのに、私は通夜・葬儀の二日間、何もお手伝いすることもなく(というか、今回はしなくてはならないことが何もなく)、以前からお話ししてみたかった別の叔母とゆっくり、とても深く心の触れ合う話をしたり、他の親戚の人たちと思いがけぬ楽しい時間を過ごすことができたのだった。

以前意地悪だった叔母たちは、私の顔色を窺うような感じで、ほとんど絡んでくることもなかった。

ひとつだけ、何かの話の際に叔母から、私の学歴が中途半端だと揶揄されたが、それに突っ込み返す私もいたし、後で考えると、そう思っているのは多分私だから、今回またもや叔母の口を通して知らされたのだと納得がいった。

この意地悪で口の悪い叔母さんは、私にとっての一番ありがたい鏡の存在なのだとしみじみ思った。



私が体験する世界は、180度と言ってもよいくらい、完全に変わっていた。

これが私の生きる世界。

もう後戻りすることはないと思っている。


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