友人たちが主催した「かみさまとのやくそく~胎内記憶を語る子どもたち~」というドキュメンタリー映画を観に行った。

その催しは、主に小さい子供達を持つ親御さん達へメッセージを届けたいと言う友人達の思いの下に開催されていたので、上映されている部屋の階下からは、託児場に預けられて遊んでいる子供たちの歓声や泣き声が響き渡り、小さな子供と過ごすことがほとんどない私にとっては何とも不思議な空間だった。

三人の子供を抱えて、こういう声に囲まれて過ごしていた時間が私にも確かにあったな~と、映画を観ながら思い出した。それは映画の内容とリンクしながら、私の四半世紀に渡る子育ての期間を振り返らせ、子供達とともに笑い、泣いた時間の愛おしさ、そしてそんなに簡単に括ることのできない苦しかった日々を改めて見つめる時がきたのだなと感じさせられた。

先月、末の息子が20歳になった。
そして昨日、上の娘が結婚を決めた相手のご両親とご挨拶をした。

親業という言葉があり、その有効期限はきっと永遠なのかもしれないけれど、それを人生の大きなテーマとして生きる期間はやはり限られているように思う。そして私にとって、その期間はほぼ終わりに近づいているのだと、昨日しみじみと思ったのだ。

子業という言葉は私の造語になるかもしれないが、親業はこの子業とのセットであるような気もしている。

自分が子供として生きた期間(それは親がたとえ亡くなったとしても終わらないこともある)に、きちんと卒業を迎えていたならば、この親業はとてもスムーズに子供との良い関係性の上で機能し、いずれその役割を終えることができる。

しかし、子供であることを手放せないまま親になった場合、自分が後悔しない形での親業の終わりを迎えることは難しいのかもしれないとも思う。

私自身の親業の終わりを感じたことは、同時に子供として親に認められたい気持ちや、親のために生きることを土台とした人生は過去のものとなり、本当に自分自身を生きることができているのだということを確認できたことでもあった。

純粋にわが子の人生を、彼ら自身の独立したものだとして認め、受け入れ、そのままの彼らを一人の人間として愛する作業に、何の苦痛も伴わないということでもあるのだ。

ありがたいことに、三人の子供たちはそれぞれが、「私(僕)は、自分自身のために生きている」ときっぱりと言い切ってくれる。そしてそれに行動が伴っている。

世間的には決して特別にご立派な子供達ではないかもしれないけれど、その自信に満ちた言葉は、私にとっての何よりの癒しであり、ご褒美のように思えるのだ。


「かみさまとのやくそく」では、子供たちが親を選んで生まれてきたことに触れていた。
どの子も、親を幸せにするために生まれてきたと言っていた。

そして、親が幸せであるということは、親が子供のために自己犠牲を払うことではなく、親自身が笑顔で生きてくれることだと言うのだった。


私は今、自分が笑顔で生きていると言えると思う。
そしてそのことこそが、子供達をも笑顔にしているのは間違いない。

「あなたが自分らしく生きていてくれるだけでママは嬉しい」
子供に伝えたいのはただそれだけだ。

子供の姿に自分の葛藤を乗せることのなくなったとき、親業という言葉さえ必要なかったのだということ気がつくのだ。

それが親業の終わりであり、親子という形でこの世で出会った子供達に、一人の人間同士として新たに出会うときである。


私自身の葛藤を子供に映し出していた期間の終焉と、物理的な親としての仕事との終わりが、リンクしながら訪れつつある不思議に、面白がりながらもしみじみとしているこの頃だ。

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