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一番古い記憶で、何かに祈りを捧げていたのは、多分幼稚園の時だと思います。

当時私はキリスト教系の幼稚園に通っており、私はイエス様の絵本を読むのが大好きでした。そして、教会の荘厳な空気の中で祈りを捧げることもとても好きでした。

何を祈っていたのかは具体的には覚えてはいないのですが、その時の感覚はぼんやりと体感として残っており、それは多分家族が幸福であるようにとの祈りだったような気がしています。

なぜそれを思い出したかというと、先日友人からモニターとして前世療法(ヒプノセラピーの一種)を受けたのですが、その時に見た修道院のシスターとしての前世の自分の様子が、その幼稚園の時の自分とよく似ているような気がしたからです。 

その人生の時の感想を友人に語ると、彼女は「今世でも、あなたは同じような人生を生きているのね」と言うのでした。

俗世にまみれ、さまざまな喜怒哀楽の中に浸っている私が、修道院の隔離された世界で生きていた時の自分の様子と同じように見えると言われたのは不思議な気がします。

生きている条件がどうであれ、自分自身の在り方や、人との関わり方には、実はいつも大差がないのかもしれません。

そしてそれは、この世に生まれ落ちた時から、まるでクッキーの型抜きで抜かれた生地の形がどうであれ、そのクッキーの生地そのものは同じである事のようなものでしょう。

クッキーの喩えが頭に浮かんだのは何だか可笑しくなることですが、そのクッキーにチョコレートをかけたり、アイシングで可愛らしくデコレーションしたり、それを綺麗な箱に入れたりするようなことが、私達の多くが人生で目標としていることなのかもしれません。

素敵な洋服を着たり、美味しいご飯を食べたり、いい車に乗ったり、豪華な家に住んだり・・と、クッキーをどうデコレーションするかや何に入れるかに力を注いでいるのと同じなのでしょう。

クッキーはそのままプレーンで食べるのが好きな人もいれば、チョコレートがかかっていなくては美味しくないと言う人もいるわけです。それは人それぞれなのですが、その好みをあれこれ言う必要も全くないのだとわかります。

また、私のハートの形の方が素晴らしくて、あなたの星の形は素敵じゃないわ、というのもナンセンスなことなのだとわかります。

抹茶を混ぜ込んだ生地のクッキーが、ココアを混ぜ込んだ生地を下に見たりするのが、人種差別なのでしょうか。

突っ込みどころはたくさんある「人間=クッキー」論 ですが(笑)、ベースとなるものはいつも同じ、そして誰もが同じなのだというのは、ある意味真理なのではと思うのです。

幼稚園の頃に祈っていた体感、そして前世で祭壇の前で祈りを捧げていた体感、それらは私のクッキーの生地を表していることを改めて感じた体験でした。

そしてそれは、私の心をとても静かにさせ、ともすればクッキーのデコレーションに気が向くことで落ち着きを無くす自分を、楽にさせてくれる感覚であることを思い出したのでした。 

そこにあるものを掘り下げていくとき、常に同じ真理の鉱脈にぶつかるのだということを、改めて確認できたような気がしています。