アメリカで行われるワークショップなどに参加して、そこで出会ったアメリカ人と仲良くなって一緒に時間を過ごすと、度々カルチャーショックというか、自分の「常識」が常識ではないことに気付かされることがあります。

もちろん個人の性格などに依るものもあるかもしれませんが、それでも一度や二度ではないそれらの体験は、日本人としての自分の「常識」は、日本という風土において外から刷り込まれたものでしかないとわかるのです。

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例を二つほどあげてみます。

あるワークショップの休憩時間に一人で庭を歩いていたら、前日知り合いになったある女性が椅子に座って泣いていたので、つい気になって声をかけたら、彼女のお財布がどうやら盗まれてしまったらしいとのことでした。

ホテル側には届けてあるようでしたが、ワークショップに参加する気持ちになれないらしく、外にいたようです。

そして彼女は私に、受付をしているあるスタッフの女性に、彼女のもとに来てほしいと伝言してほしいと頼まれました。

休憩時間はもうそんなには残っていなかったので、私は小走りに受付へと向かったのですが、そのスタッフの女性は、少し前に講師としても素晴らしいパフォーマンスを披露していたので、何人もの人に囲まれて話をしていたのでした。

私は伝言を彼女に伝えたのですが、私の予想とは全く違う答えが返ってきたのです。

彼女は、休憩時間はあと少ししか残っていないこと、今まで参加者たちの質問に答えていたのでまだ自分がトイレなどにいっていないこと、それを優先する事の方が自分にとっては大切なので、その人のところへは行く時間はないとのことを、理路整然と話すのでした。

目が点になってしまったというか、日本的な発想をしていた私は、スタッフは自分のことを後回しにしても、困っている人の元へ駆けつけるものだと思っていたので、その凛とした返答に心底驚きました。

後で、私に伝言した人はちょっとした「困ったチャン」の人であったらしいこと、お財布を無くしたいきさつも、前夜にお酒を飲んでいて起こった出来事らしいということを知ったので、そのスタッフの女性の厳しさの意味も納得がいったのですが、それでももし自分だったら、そのように答えることができただろうかと考えました。

たとえトイレを我慢しても、先にその人の元へと行き、伝言してくれた私にも丁寧にお礼を言うのではと思ったのです。

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そしてもう一つ。

アメリカ人の友人が、部屋で少し寒そうなそぶりをしたので、「エアコンが寒いかな?温度をあげようか?」と言った時に、いきなりきつい言い方で、「私は自分がしてほしいことがあったらちゃんと言います。勝手にあれこれ探るのはやめてほしい。」と言われたのです。

その様子から、私は自分が気づかないうちに、その時だけではなく何度か同じように、相手の様子を探って先回りして何かを聞いていたのだなとわかりました。そしてそれが、その人に不快感を与えていたようなのです。

日本でなら「気遣いのできる人」と称賛される(かもしれない・・笑)行動で、私は軽く叱られたのでした。目から鱗が落ちました。


日本のサービス業が「どんな難題にも笑顔で全力で対処する」ようなことを良しとする風潮がある時代に生まれ育ち、小学校のクラスの黒板の上には「人の気持ちになって考える」という標語が掲げられていたのを毎日読まされていた私は、知らず知らずに、自分のことよりも相手のことを優先させて考えることが素晴らしいと思う思考回路を持ってしまっていたのでした。

誤解のないように付け加えますが、気遣いのできる人がダメだと言っているのではありません。

自分を後回しにして他人の為に尽くす行為を優先させることは、必ずしも素晴らいのではないだと気付かされたのです。

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「我儘(わがまま)な人」は、日本では嫌われることが多いかと思います。「我儘=自分を優先させる人・自分がやりたいことしかやらない人」という定義になるでしょうか。

しかし前述のアメリカ人達のような感じの方達も、日本ではこの定義に含まれてしまっているような気がしています。

「ジコチュー(自己中)」という、昔はなかった言葉が市民権を得ているのも、日本でも徐々に人々の在り方が変わってきている現象なのではと思うのです。

個人的には、ジコチューで無い人の方が思いやりがあり優しい人が多いので私は好きですが、それでもその好きだと感じる人達には、もう少しジコチューになってもらってもよいのでは?と最近思っています。

我儘な人、もしくはジコチューな人を嫌う人は、自分はそうではない人達です。自分がやっていない「まず自分」を易々とやっている人に腹が立つのです。腹が立つというのは、本当は自分もそうありたいのに、自分がそうではないからです。

「我儘な人・ジコチューな人」と人からレッテルを張られている人は、多分他の「我儘な人・ジコチューな人」には寛容なのではと思います。自分が自分を一番にしている人は、他の人が自分を一番にしても、それは当たり前だと思うからです。

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「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉がありますが、それは自分の気持ちを後回しにして、全体のことを優先させるというのとは違うような気がします。

一人一人が自分の気持ちを大切にして、それをお互いに尊重しあい、すり合わせることができる部分とそうではない部分を明確にすることは、決して和を乱すことにはならないでしょう。

自分の気持ちをなかなか言えないからこそ、お互いに察しあうのをよしとする日本の文化は、少し何かがずれているような気がするのは私だけでしょうか。

自分を大切に扱っている人こそ、本当の意味で相手を大切に扱う事ができると思います。

言えずに飲み込んでいることを、勇気を出して伝えていくこと。それは決して我儘でもジコチューでもないのだと思うのです。

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行きたいワークショップならアメリカでもどこでも出掛けていく私は、我儘・ジコチューな人間とそしりを受けそうですが、我が家では「変な人」としか言われることはありません(笑)

そして、それを家族に笑顔で受け入れてもらえるようになっている今は、かつてないほど家族と愛を分かち合っていると断言できます。

自分に与えているものは、家族にも惜しみなく与えることができます。
自分に与えれば与えるほど、周りの人達にも与えることが可能になります。

まず自分を大切にすると、心から周りの人達をも大切にできることを知ることは、自分のみならず周りの人達をも幸せにしていくという素敵な道です。

我儘もジコチューも、すべての人がそうなった時にはベクトルがうまくかみ合い、最高の調和が生まれる世界が現れるのではと思っています。