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何かの脅迫文?!・・ではなくて、断捨離中に見つけた、小学生の頃の私がもらったラブレターでした。

あまりに面白くて思わず夫に見せたら、やはり彼も「何?脅迫文??いたずら?!」・・ですよね(笑)

こんなものをもらった記憶はもうなかったのですが、差出人は連名で、その男の子達の顔を思い出したら、多分それはマジなやつだったのだろうなと思いました。

彼らは女の子をからかって喜ぶようなタイプの子達ではなく、二人共ひょろっとした痩せ形の、口数の少ない、クラスでも地味な目立たない仲良しペアでした。

当時の私がどう反応したかも全く覚えていないのですが、破り捨ててはいなかったことと、名前を見てすぐ顔を思い出せたくらいなので、その後は多分気にかけて彼らとおしゃべりする機会を増やしていたのだと思います。(当時の私は結構人気者でした。→自慢か?笑)

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何かとやることがあって忙しかった日々が終わり、ぽかーんと時間が空いたら、久々の断捨離モードへのスイッチが入り、家事収納の奥にしまいこんでいた手紙の束を見つけたのでした。

ほぼ一年前に取り組んだ久々の断捨離(過去記事→「大きなリリースの断捨離」)で、手紙や日記の類は全部処分したと思っていたのですが、どうやらそれ以前に整理して大きな箱に詰めていたものが残っていたようなのです。

一番古いのは小学校3年生の頃で、最後は20歳の誕生日あたりの手紙でした。今では不思議に思えるほど、私はまめに友人や家族と文通をしていたのでした。

昨年一度、日記と手紙を断捨離していたので、前回のような大きなノスタルジーの波はやってはきませんでした。

しかし、自分が無意識レベルで意図的に消していたような時間を再び思い出すためのような手紙が目につき、しばしタイムトリップと、自分の過去の検証をするような時間が与えられたのでした。


二股をかけられて別れた元彼からの「やり直したい」と毎日送られてきていた(らしい)懺悔と私への執着に溢れた手紙(笑)は、全く記憶の外にありました。しかし、今の私がそれを読むことで見えてきたのは、彼は私の記憶にあるよりずっと素晴らしいところがある人だったということでした。

また、当時親しかった女友達からの山のような手紙は、ほぼほぼ恋の話題で埋め尽くされていました。あ~、私にも青春があったのだな~と、不思議な感動でした(笑)

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そして一番深く入り込んで読んだのは、家族からの手紙でした。私には弟が二人いるのですが、中学生や高校生だった彼らからの可愛らしい手紙には胸が温かくなりました。

しかし真打はやはり母でした。

彼女からの手紙には、私への溢れんばかりの愛情はもちろんですが、それと同じかそれ以上の支配のエネルギーが溢れていたのでした。

まだ生活費や学費を出してもらっていた19歳やそこらの娘に対しては、今とは比べものにならない自信とパワーを持って、私の彼氏やお金の事、将来への希望など、母が望む方向へとなんとかして私を持っていこうと必死な手紙のオンパレードでした。

改めて気づいたのですが、母は3人の子供達すべてに、自分の眼鏡に適わない交際相手と別れさせるということを全身全霊でやっていたのでした。(姉弟3人共、結婚まで考えた相手と、一度ずつ別れています。)

それは親の愛だったと、今でも母は言います。転ばぬ先の杖・・という意味なのだと思いますが、今の私にとっては、寒気がするほど気持ちの悪いコントロールのエネルギーです。それは愛という名の下の、相手を自分の思い通りにしたいと言う欲求でしかないように思えます。

確かに私達が選んでいた相手は、ベストな相手ではなかったのかもしれません。それでも、それに気づき別れるかどうかを決めるのは、やはり本人でなければならなかったと思うのです。


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当時の私も、弟たちも、親の愛という名の下の安全弁を受け入れざるを得ませんでした。あまりにも必死だった母の姿に折れたというのが正しいかもしれません。

自分も親になり、祖母にまでなった今は、母の気持ちもわからない訳ではありません。

それでも、転ぶ前にそうならないようにと無理強いして手を出すのは、やはり子供の為にはならないのではと思うのです。

子供には、転ぶ自由もあるはずです。転んで痛い目にあって、そこから学ぶという計画もあるのです。

親の気持ちや考えを伝えることはいけないとは思ってはいません。それでも子供が望まぬ方向へ進もうとするなら、親にできるのは、救急箱を持って後ろで待機していてあげることだけではないでしょうか。

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80歳になった今も、全く手紙のままの母の在り方は、ある意味あっぱれともいうべきでしょう。

私達は大人になり、もう母に支配されることを手放し、その下にある愛情だけに目を向けるよう心掛けて、老い先短い親とはそれなりにうまく付き合っています。

それでも、やはり母は重いのです。皆、喜んで会いたいとはならないのです。彼女が私達に会いたがっているのがわかるからこそ、それは本当に悲しい事だと思います。


もう30年も昔に書かれた手紙を偶然手にして、愛という名のもとに為されているエゴからの行為が、どれほど純粋な愛の受け渡しを妨げているかを考える機会となりました。

そしてまた、タイムマシンにのって過去を覗き見るような時間は、やはりいざ手放すとなると、執着がないと言ったらうそになります。

「断捨離しよう!」と思う時は、古いものを手放し新しい扉を開いて前に進む時だと知っています。

すべての過去は今ここに集約され、今ここに生きている私がどう在るか、それのみなのだと思うのです。

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見なければそれは存在しないのと等しかった手紙の束は、読んだ途端に執着心と向き合わなければならないものに変わりました。

人生というもの、人間としてこの世で体験していることは、すべてそれと同じなのだと感じます。

人間であることの執着を超えたところには何が待っているのか。私達は皆、そこへ向かって行っているのではと思った出来事だったのでした。