「お母さん、いつまで自分探ししてるの?」
以前私のコースに参加して下さっていた方が、娘さんに言われて「痛っ!」となった言葉だそうです。
その話を聞いて、少し思いを巡らせてみました。
「自分探し」が崇高なことのように思われて、哲学や文学が青春時代の中心にあった時代は遥か昔の事となりました。
私小説的な過去の日本文学よりも、エンタテイメント性の高い小説が好まれる今の時代に育っている子供達からは、「自分探し」なんてある意味不思議なことなのかもしれません。
確かに私の子供達も、これまで「自分探し」をしていた形跡はどこにもありません(笑)
ごくたまに落ち込んで悩んでいたのを見た時も、それは自分探しではなく友人関係についてのことでした。
かなりませていた子供だった私自身は、小学校の高学年くらいから哲学的なことを思考していた記憶がありますが、うちの子供達は本を読むのも好きではありませんでしたし、「哲学?文学?興味ないわ!」と言った感じでした。
これは私の夫もそうなのですが、彼らはあまり「悩む」という事がありません。そしてそれは、私から見ると「自分に自信を持っている」という感じに見えます。
それは何かができるとか、優秀・有能であるという類の自信ではなく、自分がどう感じるか・自分がどう在りたいかに自信を持っているという感じなのです。
「自分探しの旅」というのは、その自信と深く関係しているような気がするのです。
その「自信」に関して、私の家族(夫と子供3人)を観察してみると、どっぷり「自分探し」をしてきた私と、そうでない彼らとの違いは明白です。
それは「自己肯定感」の一語に尽きると思います。
例えば夫ですが、彼は女3人男1人のきょうだい構成の中、大切な長男として生まれており、地域柄としても男尊女卑の強い田舎だったので、両親や親戚にまでもとても大切に育てられてきました。
義姉から「私が、皆が持っているから同じおもちゃを買ってほしいと頼んだ時、お父さんから『お前は皆が死ぬといったら死ぬのか?!』と叱られたのに、〇〇(夫)が同じ事を言ったら、『どこに売っているのか聞いてきなさい』と言ったのよ~!」と聞かされた時には、驚きました。
事実、義姉の子供時代には、家には3人も女の子がいても雛飾りはなかったのに(その頃家は貧しかったらしく・・)、5月飾りの兜はあったというのです。ちょっと信じられません。
なので夫は、私と結婚して一度離婚騒動になるまでは(笑)、多分本気で一度も何かを悩んだことはないと思います。
誰かと自分を比べることも全くしませんし、いつも今の自分に満足していて、出世意欲さえありませんでした(笑)
私から見ると、不思議でしかない人でした。
そしてうちの子供達も、父親の遺伝子か、はたまた私の育て方が良かったのか(笑)、とても自己肯定感が高いなと感じます。
母親が、宗教やスピリチュアルと言った自分探しの旅を続けていても、ずっと冷静に皆さんマイペースです。
私を否定もしないけれど、肯定もしないし、何か外に教えを求めると言うようなことは、書物でも人でもしてきた様子はありません。
これまで人生の分かれ道に面した時も、自分で考えたのちに、静かに私に相談に来ただけでした。
夫も子供達も、ずっと私には羨ましいとしか言えない安定感の元に生きている人達なのです。
もちろん、実家の母のように、自己肯定感が低くても、それを哲学的なことに求めるのではなく、ただ愚痴や自己憐憫で紛らわせている人もいます。
なので一概に、自己肯定感が低いことが自分探しの旅をする絶対条件とは言えませんが、それでもかなりの人達の衝動の奥に、それがあるような気がするのです。
冒頭の台詞を言われた彼女は、痛たた・・となった訳ですが、私は「自分探し」をすることを決して駄目なことだとは思っていません。
「自分が何であるかを知る」事に向かっていくということは、人間として生きる時の最も楽しいゲームの一つのような気がするからです。
自己肯定感が低いことで味わう苦しみや悲しみは、これ以上ない人生の醍醐味でしょう。
悲しい映画や、もだえ苦しむような心を乱す映画は、シンプルなスリルや楽しさを味わう映画に勝るとも劣らず人を惹きつける映画なのです。
自己肯定感の高い人達が、安定してそのシンプルなスリルや楽しさを味わっているのも選択肢でしかなく、悲しみ・苦しみを味わいたいから自己肯定感が低くなるように生まれついたのも、単なる選択の結果なのです。
問題は、「もう十分苦しんだ(=楽しんだ)」と感じ、それを手放して次のステージに行く時に、速やかにそうできるか否かということなのでしょう。
私がコースやセミナーでお伝えしているのは、そこのところなのです。
「悲しみ・苦しみ」の映画館を出て、「喜び・楽しさ」の映画を観に行く方法はあるのだと、お伝えしています。
世間には今、たくさんの人達が、さまざまなやり方でその方法をお伝えしているようです。
人類の集合意識が、もう「悲しみ・苦しみ」の映画の上映を打ち切ろうとしているのではと感じます。
これからは「自分探しの旅」が必要なくなっていくことでしょう。
なぜなら、「自分が誰か」を知っていて、「自分がなぜここにいるか」を知って生きる人達ばかりになっていくからです。
育てられる過程で「自己肯定感」を手にすることができなかった人は、今から自分が自分にそれを与えて行けばよいのです。
それは、自分が感じることと、自分がそう在ることとが一致している状態です。
自分を見失ってそれを探すと言うゲームは、もうどうやら時代遅れのようです。
ハートの奥から響いてくる声を常に素直に聞き続ける自分になるには、それを妨げる要因を一つ一つ丁寧に取り除いて行けばよいのです。
もちろん、一気にそれをやっても構いませんが・・(笑)
もし、自己認識が足りなかった場合のために付け加えますが、ここまで読んで下さった方のほぼすべては、「自分探しの旅」をしているのは間違いありません。そうでなければ、こんな文字数の多い、面倒くさいブログは読みません!(笑)
↓「自分探しの旅」を終わらせるツールの一つとして、ぜひご利用下さい。
2017年 齊藤 つうり 石川ワークショップ
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