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やりたいことと、そうでないこと、その違いは明白です。

「徹夜で頑張って試験勉強した!」とは言っても「徹夜で頑張って漫画を読んだ!」とは言いません(笑)

面白い漫画やドラマにはまった時は「面白くてやめられなくて、気づいたら夜が明けていた!」というのが正しい表現でしょう。

私自身もハマるとやめられない度合いが高いタイプです。その昔友人から借りた録画ビデオ(キムタク主演の「ロングバケーション」・・古っ!)を見始めたら、まるでタイムワープしたみたいに、気づいたら朝になっていて驚いたことがありました。

旅行先を決める時なども、飛行機の航路や宿泊先を探し始めると楽しすぎて止まらなくて、パソコンの前に一日中座っているなどざらにあります。(家族からはオタクと言われています。笑)

気持ちはもっともっととなっているのに、身体が悲鳴を上げるので止めざるを得ないことも多いです。(ああ、屈強な身体が欲しいです。笑)

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昔は本や漫画やドラマなど、どちらかというと趣味的なことに時間を忘れるほど没頭することが多かったのですが、今は「仕事」と呼べるものに関わることに熱中できることが、本当に幸せだなと感じています。

それは、インプットと呼ばれる行為がアウトプットと呼ばれる行為へと展開され、自分一人ではなく、他の人達と繋がる世界での喜びへと昇華するものだからでしょう。

どんなに忙しくても、やることがたくさんあっても、嫌だとは感じないということ。そこにやりがいを感じ、創意工夫する喜びを感じ、それ以上に自分以外の人々とシェアできる喜びがあるという事。

漫画やドラマを見る楽しさも格別ですが、自分以外の人と関わり、自分の中にある才能を発揮し、そこに報酬まで得る事ができるという「仕事」を手にすることは、私にとっては、子育てで味わった充足感以来の「生きている幸せを感じる」ことです。

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しかし、「好きなことだけして生きていくなんて無理!」という人もいるかもしれませんし、それもある意味真理です。

私は長い間主婦業を主体に生きてきたので、今でも家事のほとんどをやっていますが、それを放棄するには無理があります。(家事は基本好きではありませんが、夫はもっとやらないしできないので・・)

でも、そこに自分なりの喜びが付け加えられるように、色々小さな工夫をして日々取り組んでいます。(勝手に体が動くほど慣れている家事の時には、自分が聞きたいセミナー音源を聞いたりしています。きょうする家事の項目をメモしたノートに、終わったものをチェック(ㇾ)するという単純なご褒美をあげたりもします←これは子供の勉強にも仕える手です♪)

そうして「あまり好きではないこと」も「楽しく取り組める」ように工夫することで、一日の大半を幸せに過ごすことが可能になっています。

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現在私は、齊藤つうり氏が代表のブッダプログラムのスクールにサポーターとして関わらせてもらっているのですが、自分の「心からやりたいこと」を突き詰めて仕事にしている彼らの姿は、いつもまるで小学生が遊びに没頭しているように楽しそうで、そして生き生きしています。

そしてそれは彼らだけのものには留まらず、日々多くの人生を変容させる奇跡を生み出しているのを目の当たりにしていると、「心からやりたいこと」をする人のパワフルさと、それが導きだす結果の素晴らしさに感動するばかりです。

実は先週末、現在開講中のアカシッククラスのお手伝いをしていたのですが、準備の際やペアワーク(人数が奇数だったので)に入った時に私にやってきたメッセージが何度か重なったのでした。それは、「やりたいことをやって、行きたいところへ行く。私は自由だ!」というようなものでした。

家族や周りの友人にもしそれを言ったら、これ以上自由になるの??と訝しがられそうですが(笑)、私自身にとっては、自由の度合いがまだまだ足りないらしいのです。

心からやりたいことで人生を埋め尽くすこと・・多分、それ以外に私は自分を本当に「自由だ」とは定義しないのでしょう。

アカシックに触れ、自分のエッセンスに触れることで、私は私のあるべき姿を知りつつあります。

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人生とはプロセスそのものなので、完全にそういう姿になることを求めても完全にはなり得ませんが、そこへ向かって進むプロセスの体験は可能であるし、そうすることが人生なのだと思うのです。

十数年前の私が「面白くてはまっていた時間」とは、真夜中に一人でビデオを見ていた時や、友人と愚痴交じりのおしゃべりをしていた時でした。

それらを楽しいと自分では思っていたのですが、実はそれは「心からやりたいこと」そのものではなく、本心からの「やりたいこと」をしていない自分が、逃避行動として選んでいた「やりたいこと」だったのだなと今ならわかります。

試験前日なのに勉強せずについ漫画を読みふけってしまう時みたいに、一見「やりたいことをやっている」ように見えるのに、その後に罪悪感や空しさがやってくるというのは、逃避行動として選んでいる「やりたいこと」なのだからでしょう。

当時毎日にようにおしゃべりしていた近所の友人とは、気づいたら一年に一回道ですれ違って挨拶を交わすだけの関係に変わってしまいました。

私が逃避行動をやめて、心からやりたいことへと向かう道を歩き始めたことで、お互いの傷をなめ合うような関係性だった友人とは、もうその関係性では一緒にいられなくなってしまったからなのでしょう。(友人のプロセスがどうなっているのかは知らないのですが、私達二人の間にあったものは、もう存続できなくなってしまったということです)

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「やりたい」と感じることには段階があるように感じます。

あまりにも窮屈に自分を縛り付けていた人は、漫画を読みふけるようなことから始めてもよいのかもしれません。

買いたいものを買うとか、行きたいところに行くとか、徐々に自分への許可度を上げていくことで、やがて自分でも封じ込めて忘れ去ってしまっていた「心からやりたいこと」に気が付いていくことでしょう。

そして個々人が「やりたいこと」に自由に取り組み始め、それをとことん深めていくとき、それは個人のレベルに留まらずに、やがて静かに他の人々にも影響を及ぼしていくのでしょう。

そういう流れが地球規模でやってきているのを感じます。

流れに乗るのも乗らないもの個人の自由なのですが、川の流れに逆らうことで水を飲んだり溺れたりしやすくなるのも感じます。

しっかり前を向いて、リラックスして流れに乗ることで、前方にある岩や川の蛇行にも気付きやすくなります。

そうしてやがて川は海に流れ込み、想像もしなかった広く大きな海が眼前に広がるのを見ることになるのでしょう。

「心からやりたいこと」がどこに辿り着くのか、まだ見ぬ広い海へと向かって、きょうも私は流れに乗って進んでいきたいと思うのです。



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