ニュージーランドの地震の辺りから、一昨日の京大受験生の逮捕のニュースを聞いた頃まで、今までにないほどマスメディアからのニュースに反応する自分を感じていました。

今までは、正直なところ、世間で起きているニュースにそこまで心が動かされませんでした。
テレビニュースやワイドショーはあまり見ない方で、新聞のみからニュースを仕入れている私でした。

しかし、分離と統合のワークを始めてから、目にするものの全てが自分の中からくる反応だということに気付き、そうすると、これでもかこれでもかというように、自分の中にある分離を見るチャンスが訪れてくる訳です。

起きている出来事は中立なものであり、それを悲しいと感じたり、理不尽だと怒ったり、わが意を得たりと興奮したり・・これら全ては、自分の中にあるカルマ的なものや、価値観に関わるようなものが、起きている現象の中立性を奪い、それを個人的なものとして自分の感情を揺さぶっている訳です。

それのどこがいけないのか?と問われれば、別にいけないことでもないわけですが、例えばニュージーランド地震のニュースに必要以上に感情移入するということは、自分の中にある「愛する人を失う怖れ」や「大切なものが奪われる恐怖」などが、昇華されずに感情のしこりとして残っているのだと思うのです。

私は、一昨日の京大受験生のカンニングの事件を見聞きし、彼のした罪とそれに与えられる量刑(社会的なバッシング)の大きさのアンバランスさに、悲しみが噴出してならなかったのでした。

それが私の中にある分離感のなせるわざだということに気付き、自分の中にあるカルマ的な悲しみと怒りを知ることができ、それを統合する試みをすることができました。


多分これらは、私だけに起きている現象ではなくて、世間の多くの人達が自分の中にあるものを省みるチャンスを与えられている時期に入っているのだと思います。

これまでなら隠されたままで済んだものが、もう隠される事が許されないエネルギー・・それに伴って、全てが白日の下に晒され、分離したままでいることが不可能な状態になってきているのでしょう。

私にできるのは、一つ一つただ自分の中の分離感を統合することのみであり、そうすることから、他人へのジャッジも存在することが不可能になるのだと思うのです。

ずっと「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が、自分が感じているものに近いと思っていたのですが、それさえも自分の中にある分離感の表れであり、「罪」という概念が存在することさえ、己の中の分離感のなせるわざだということに気付いたこの頃です。