2012年の冬至が過ぎ、あっというまに2013年の立春も過ぎました。なんだか過ぎてみると早いのだけど、色んなことが起き、自分の中でも色々な手放しや変化があり、とても長い時間が経ったような気もしています。

ここ最近は、シンクロを通り越してミラクルとしか言いようのない出来事が次々と起こり、もう以前の一人一人が分離した存在である世界には戻れないのだと、改めて感じている次第です。

全てが繋がっているこの世界。起きる出来事、向き合う人々、過去・現在・未来。すべてが自分を中心に広がる世界であり、どこにも自分以外であるものがないのだということ。そのことに日々思いを強くしています。

以前、「人生とは、悲しみのディズニーランドだ」というフレーズを耳にした時、本当にその通りだと思った自分がいました。何度も何度も繰り返す転生を通して、苦しみ悲しみを体験することを楽しんできた自分。それこそが人間体験だったのだと、深く頷く自分がいました。

しかし、今自分が向かっているのはもう悲しみのディスニーランドではないのだと、その場所を出て新たに向かっている場所があるのだと、ようやくそれを認めようとしている私がいます。

だからなのでしょうか、冬至の頃から次々と、自分の中に深く横たわっていた、いや潜んでいることさえ忘れていた、さまざまな転生を通して体験してきた悲しみを放出する為の出来事が起こり続けているようです。

カウアイから戻って、まるで天国に住んでいるような幸せな感覚を味わっていた自分から、ほんの二か月ほどの間に、何度悲しみの涙を流す体験をしたことでしょうか。

出来事や人間関係を通して、レインドロップというアロマの施術体験を通して、また自分の心の奥深くを映し出すような夢を見ることで、私は自分の中に持ち続けていた悲しみを知り、それを外に出す作業を繰り返しました。

そしてその時期から始まった心臓の不整脈は、それらがまさにハートチャクラの解放であることを示し、それがようやく収まってきたと感じると同時に、ハートチャクラと太陽神経叢(第3チャクラ)から突き上げるような感覚を覚える激しい咳が出続けています。

風邪のウイルスの助けを借りてはいますが、この咳はただ身体の不調として起きているのではないなと感じていたら、昨晩見た夢にヒントがありました。

それまで解放してきた悲しみは、自分と人との関係性に基づくものでした。レインドロップを受けた晩に爆発するように突き上げてきた悲しみは、「私は誰からも愛されていない!」という慟哭のようなものでした。今世での出来事でそのスイッチは入っていましたが、その悲しみそのものは過去世で繰り返して自分の中に刷り込んだものだと感じました。

しかし昨晩見た夢から気づいたのは、自分が自分自身に対して感じている悲しみでした。「わたしは他の人と同じようにうまくできない。私には能力がない!」というもののようでした。

私を個人的に知っている人は、どういうことだろう?と疑問に思うかもしれません。すごく深く私を理解してくれている人なら、少しその感覚がわかってもらえるかもしれません。当たり前ですが、私はそのことがよくわかりました。ただ、それほど深く「自分には能力がない」ということに傷つき、悲しみを抱えていたのだということには気づいていなかったのかもしれません。

私は東京オリンピックの年に生まれました。日本が劇的に変化をしている時代、高度成長期の真っただ中に子供時代、青春時代を過ごしてきました。新興住宅地にあった小学校では、毎年のようにクラスが増え続け、生活はどんどん便利になっていきました。

能力のあること、力のあること、人の上に立つことが価値のあることであったその時代、当時学校の成績が良かった私は、親から医者か弁護士になれと言われていました。本当は「どんくさい」私で、多分そこまで頭もよくなかったであろう私でしたが、小学校時代から精一杯を超える努力を続けてきました。

そうして燃え尽きたのが、多分中3の頃でした。何かが少しずつ壊れていく感じでした。親の望むコースを突き進むことができなくなった私は、それを「反抗」という形で表しました。そしてその中で自分を保つために、私はできない自分を認める代わりに、何かと言い訳を自分に許し始めました。それはその時の私が生き残るためには、なくてはならないものでした。

しかし、どこかで私はそれを自分に許してはいなかったようです。私はだめな人間、できない人間、適応できなかった人間・・・その延長線上に今の私がいました。

昨晩見た夢では、私は幼稚園の見習い先生のようでした。バス遠足に行く園児たちを見送り引率するために、他の先生方は皆同じ赤い制服のようなものを来ていました。私はと言えば、まず集合場所に行くのに迷って迷って、何かと障害に出合ってそこにたどり着くのがものすごく遅れ、その上自分だけ全く違う服を着ていました。

自分だけが違うことを厳しい目で見られ、それでも仕方ないから早くしなさいと叱られ、自分はなんでこうなのだろう?と落ち込んだところで目が覚めました。

私はこんな感覚でずっと生きてきたんだということが、静かに胸に落ちました。今ここにあるもの、今自分が手にしているものに満足できず、足りない足りないと自分を卑下している自分がなぜいるのかがわかりました。

今の私には、私を愛してくれる家族、友人達がいます。食べるのに困らない生活環境があり、やらなければならない苦しいことを抱えているのでもなく、一見すると自由気ままに生きている毎日があります。

それでも私の中には、まだこんな苦しいもの悲しいものが横たわったままでいたのだなと、もうそれは劇的なものではないにしろ、意外な発見でした。

10年前の私と今の私とは、全く違っていると思っていました。さまざまな出来事を通し、自分と向き合い、私を縛り付けていたものから解放され、今に至っていました。

それでも、深い深いところに横たわっていたものは、何も変わっていなかった・・そのことに気づきました。でも、一つだけ違うのは、もうその悲しみに振り回されない自分が確かにここにいるという感覚です。

出会う人達、関わる人達の変容を目の当たりにして、その現実を創り出している自分の世界で、それが自分にも起きていることを知るとき、形容しがたい静けさと穏やかさ、そして幸せを感じます。

自分自身が拡大していくことを許可し、本当の自分を生きることを認めるとき、それをシェアする人々と生きる世界に、もう悲しみは存在することができないのだと思うのです。


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