2017年08月

新しいゲーム

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人は皆、自分自身が創りだした世界の中で生きています。

すべては自分の決めた筋書きで、プレイしようと決めてきたゲームです。

誰がどの役割を引き受け、どのタイミングでその出来事に遭遇するかは、すべて自分が決めています。


ゲームを楽しむということは、設定した中でプロセスを楽しむということです。

どのように駒を進め、いつどのようにゴールするかは、自分の望み通りの体験です。


苦しみのゲームがもう嫌な人は、それをやめてもよいのです。

悲しみのゲームに浸ってきた人も、疲れたならば変えてもよいのです。

すべては、プロセスを味わいたくて自分がやっていたことです。


苦しみも悲しみも、まだ味わい足りない人だけが掴んでいます。

もちろん、望むだけそこに居ても構いません。

しかし、もうそれを味わい尽くしたと感じるならば、次のステージに進むこともできるのです。

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古いゲームをやめるときが来ているようです。

ゲーム盤が先に、新しいものにリニューアルされているようなのです。

決意した人から、その新しいゲーム盤で新しいゲームを始められます。

そして、そのゲームがとても美しく心地よいものであることを、他の人に伝えていくのです。


望む世界で生きていくことを決めるのは自分です。

永遠に巡る苦しみの世界でのゲームは、もう終わりにする時が来ています。

自分が本当にプレイしたかったゲームを、始める時が来ているのです。











波に乗ると決める

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今年3回目のシフトの波がやってきて早2週間以上が過ぎました。

私達の次元上昇のプロセスにおいて、もう持っていることのできないものが浮かび上がり、潔くそれを手放すか否かで、それぞれの体験は違ってきているのではと思います。


大きな波が来ています。

それに乗って行くときには、今いる場所よりずっと遠くへとあっという間に連れていかれます。

自分一人では思いもしないところへ、波はあなたを押し出そうとします。


しかし波に乗るのを怖れ、これまで手にしていた重しを手放すことなく身体を固くするとき、あなたは大きな波に飲み込まれ、深い海の底に引きずり込まれるかもしれません。

波に乗ると決める時、ただそう決意するだけで、あなたには目に見えぬ後押しがやってきます。

あなたをサポートする存在が、見えないサーフボードにあなたを乗せてくれるのです。


今世界に起こっている恐怖は、大きな波に飲み込まれる恐怖です。

ええ、確かに波は来ているのです。

しかしその波は、決して飲み込まれるだけの恐ろしいものではないのです。

台風の日に、勇んでボードを手にして波に向かっていくサーファー達のように、その大波に乗ってこれまで見えなかったものを見る世界に行くことは可能なのです。


これまで自分が自分であるために必要だと信じていた考え方、仕事、人間関係は、もうあなたを波に乗せてくれるものではなくなりました。

新しいボードを手にして下さい。

今来ている波に乗るためのボードに乗って下さい。

何度も何度も向き合ってきた課題を、本当に終わらせて次に行く時が来ています。

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勇気を持って下さい。

古いゲームを終わらせて下さい。

これまで取り組んできたゲームでの体験が、あなたを次のステージへと進めるのです。


全ては無駄ではなかったのです。

よくやった!と自分を褒めてあげて下さい。

そして次へと進むのです。


すべては波長の法則です。

自分に合わなくなったものを握りしめているのは、自分が自分であることを阻みます。

あなたにあった波長に自分をチューニングしてください。

もう合わせる事のできなくなっているものにチューニングする必要はないのです。


クリアな音を聞いて下さい。

あなたの中に響いてくる声を聞いて下さい。


自分が今どこにいたいのか。

どう生きていたいのか。

どう在ることが自分なのか。


感じることをやめて眠ったまま進むことは、もうできないのです。

外から聞こえてくる声ではなく、あなたの中から響く声を聞いて進んで行く時が来ています。

時は今です。







passion(パッション)に従い生きる

自分にはどんな仕事が向いているか?
自分は何をするためにこの世に生まれてきたのか?

人々がよく口にする質問への答えはただ一つ、passion(パッション)だと思います。
自分のpassion(パッション)に従って生きることが、唯一後悔なく生きる道ではないかと思うのです。

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passion(パッション)という言葉の意味は、情熱もしくは愛情・愛着です。

私が感じる情熱というのは、熱く激しい感情というよりも、それをやっている時には時間を忘れるようなもの、もしくはそれをしている時に自分が最大限に生かされている感じがすることです。

それは、他から見ると十分できている状態なのに、自分自身ではそれに対してとても理想が高く、まだまだそこにつぎ込むべきエネルギーが必要な状態だと感じることです。

自分はより高みを目指す気持ちで向き合っているので、まだまだ先があるように感じていても、周りの人達からは素晴らしいと称賛されるようなことです。


自分のpassionが何かわからない!という人にも時々出会いますが、その人達はそれがわからなくなっているのではなく、それ以外の事を重要視しすぎて生きてきてしまったので、麻痺がおこって感じなくなってしまっているだけです。

その麻痺を取り除くためには、自分の命を燃やして取り組んでもよいと感じること以外を、自分に無理やり課すことをやめればよいのです。

自分がこの人生で為そうとしてきたことかそうでないことかを見極める為に、とても簡単な方法があります。これは、仕事や事柄のみならず、人間関係についての発見にも使えます。

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目を瞑って、想像してみてください。あと1ヶ月であなたの命が尽きると宣告されました。

あなたはきょう、今やっている仕事をやりますか?
あなたはきょう、あなたが会う予定にしているその人と会いますか?
あなたは最後の日まで、微笑みを持って毎日を生きることができますか?

明日も明後日も変わらずに、今やっている仕事に取り組むことができると感じるならば、あなたは自分のpassionに従って仕事をしていると言えるでしょう。

命が尽きる日までに会いたいと感じる人が、あなたの人生において大切な人達でしょう。

それらは全て反対の事も言えるのです。

命が尽きる日まで取り組みたいとは感じない仕事は、あなたのpassionに従ってしていることではありません。

残りの1ヶ月に、その人に会う時間がもったいないと感じるなら、その人はあなたが会うべき人ではありません。


そんな極端なことは起こり得ないと思うか否かは自由ですが、私達はいつ死ぬかはわからないのです。

きょう会えた人に、明日会えないことはいくらでもあるのです。


あなたが決心しない限り、自分が自分のしたいことをする「いつか」は決してやってきません。

もう、心残りをしたまま生きる時間はありません。

特別なことをしなくてはならないのではないのです。ただ毎日を慈しみ、ハートの望みと繋がって自分を慈しんで生きることこそが、passionに従って生きるという事なのです。

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鬱(うつ)というのは、創造性を外に向けて発揮することができずに、自分の内側へとベクトルが向かい、自分を攻撃している状態だそうです。

passionに従って生きるということは、すなわち創造性を発揮して生きるということです。自分自身を生かして生きるということです。

エネルギーシフトの波の真っただ中である今、すべてのエネルギーは増大した形で表れています。

鬱(うつ)症状であるものを押し込めて生きている人は、それを無視することができなくなるくらい苦しくなるか、もしくはこの世に生きる意味を失い、あちらの世界へ戻ろうとすることでしょう。


ハートの声を聞かないふりは、もう無理なのです。自分のpassionを押し殺して生きることは、もう無理なのです。

自分自身に許可を与えて下さい。あと1ヶ月しか人生が残っていないとしたら、どう生きたいかを感じてみて下さい。

心残りのないように生きるということへ意識を向けると、自分のpassionが何であるか、自分は何をするために生まれてきたのかが、必ずわかります。

それがわからない人は、自分が麻痺しているということに気付いて下さい。そしてその麻痺が何故起きているかと向き合って下さい。その原因を取り除くことを始めて下さい。

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私達は自分を生きるために、今ここにいるのです。

他人の人生を生きる必要はありません。親に、世間に認められることのために生きる必要もありません。

自分のハートに繋がって生きて下さい。passionに従い生きて下さい。

そうすることができる人達だけが、愛で繋がって生きることができるのです。

愛で繋がる世界を作るために、私達はここにいるのです。










愛という名の支配

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何かの脅迫文?!・・ではなくて、断捨離中に見つけた、小学生の頃の私がもらったラブレターでした。

あまりに面白くて思わず夫に見せたら、やはり彼も「何?脅迫文??いたずら?!」・・ですよね(笑)

こんなものをもらった記憶はもうなかったのですが、差出人は連名で、その男の子達の顔を思い出したら、多分それはマジなやつだったのだろうなと思いました。

彼らは女の子をからかって喜ぶようなタイプの子達ではなく、二人共ひょろっとした痩せ形の、口数の少ない、クラスでも地味な目立たない仲良しペアでした。

当時の私がどう反応したかも全く覚えていないのですが、破り捨ててはいなかったことと、名前を見てすぐ顔を思い出せたくらいなので、その後は多分気にかけて彼らとおしゃべりする機会を増やしていたのだと思います。(当時の私は結構人気者でした。→自慢か?笑)

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何かとやることがあって忙しかった日々が終わり、ぽかーんと時間が空いたら、久々の断捨離モードへのスイッチが入り、家事収納の奥にしまいこんでいた手紙の束を見つけたのでした。

ほぼ一年前に取り組んだ久々の断捨離(過去記事→「大きなリリースの断捨離」)で、手紙や日記の類は全部処分したと思っていたのですが、どうやらそれ以前に整理して大きな箱に詰めていたものが残っていたようなのです。

一番古いのは小学校3年生の頃で、最後は20歳の誕生日あたりの手紙でした。今では不思議に思えるほど、私はまめに友人や家族と文通をしていたのでした。

昨年一度、日記と手紙を断捨離していたので、前回のような大きなノスタルジーの波はやってはきませんでした。

しかし、自分が無意識レベルで意図的に消していたような時間を再び思い出すためのような手紙が目につき、しばしタイムトリップと、自分の過去の検証をするような時間が与えられたのでした。


二股をかけられて別れた元彼からの「やり直したい」と毎日送られてきていた(らしい)懺悔と私への執着に溢れた手紙(笑)は、全く記憶の外にありました。しかし、今の私がそれを読むことで見えてきたのは、彼は私の記憶にあるよりずっと素晴らしいところがある人だったということでした。

また、当時親しかった女友達からの山のような手紙は、ほぼほぼ恋の話題で埋め尽くされていました。あ~、私にも青春があったのだな~と、不思議な感動でした(笑)

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そして一番深く入り込んで読んだのは、家族からの手紙でした。私には弟が二人いるのですが、中学生や高校生だった彼らからの可愛らしい手紙には胸が温かくなりました。

しかし真打はやはり母でした。

彼女からの手紙には、私への溢れんばかりの愛情はもちろんですが、それと同じかそれ以上の支配のエネルギーが溢れていたのでした。

まだ生活費や学費を出してもらっていた19歳やそこらの娘に対しては、今とは比べものにならない自信とパワーを持って、私の彼氏やお金の事、将来への希望など、母が望む方向へとなんとかして私を持っていこうと必死な手紙のオンパレードでした。

改めて気づいたのですが、母は3人の子供達すべてに、自分の眼鏡に適わない交際相手と別れさせるということを全身全霊でやっていたのでした。(姉弟3人共、結婚まで考えた相手と、一度ずつ別れています。)

それは親の愛だったと、今でも母は言います。転ばぬ先の杖・・という意味なのだと思いますが、今の私にとっては、寒気がするほど気持ちの悪いコントロールのエネルギーです。それは愛という名の下の、相手を自分の思い通りにしたいと言う欲求でしかないように思えます。

確かに私達が選んでいた相手は、ベストな相手ではなかったのかもしれません。それでも、それに気づき別れるかどうかを決めるのは、やはり本人でなければならなかったと思うのです。


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当時の私も、弟たちも、親の愛という名の下の安全弁を受け入れざるを得ませんでした。あまりにも必死だった母の姿に折れたというのが正しいかもしれません。

自分も親になり、祖母にまでなった今は、母の気持ちもわからない訳ではありません。

それでも、転ぶ前にそうならないようにと無理強いして手を出すのは、やはり子供の為にはならないのではと思うのです。

子供には、転ぶ自由もあるはずです。転んで痛い目にあって、そこから学ぶという計画もあるのです。

親の気持ちや考えを伝えることはいけないとは思ってはいません。それでも子供が望まぬ方向へ進もうとするなら、親にできるのは、救急箱を持って後ろで待機していてあげることだけではないでしょうか。

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80歳になった今も、全く手紙のままの母の在り方は、ある意味あっぱれともいうべきでしょう。

私達は大人になり、もう母に支配されることを手放し、その下にある愛情だけに目を向けるよう心掛けて、老い先短い親とはそれなりにうまく付き合っています。

それでも、やはり母は重いのです。皆、喜んで会いたいとはならないのです。彼女が私達に会いたがっているのがわかるからこそ、それは本当に悲しい事だと思います。


もう30年も昔に書かれた手紙を偶然手にして、愛という名のもとに為されているエゴからの行為が、どれほど純粋な愛の受け渡しを妨げているかを考える機会となりました。

そしてまた、タイムマシンにのって過去を覗き見るような時間は、やはりいざ手放すとなると、執着がないと言ったらうそになります。

「断捨離しよう!」と思う時は、古いものを手放し新しい扉を開いて前に進む時だと知っています。

すべての過去は今ここに集約され、今ここに生きている私がどう在るか、それのみなのだと思うのです。

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見なければそれは存在しないのと等しかった手紙の束は、読んだ途端に執着心と向き合わなければならないものに変わりました。

人生というもの、人間としてこの世で体験していることは、すべてそれと同じなのだと感じます。

人間であることの執着を超えたところには何が待っているのか。私達は皆、そこへ向かって行っているのではと思った出来事だったのでした。











わがまま?ジコチュー?

アメリカで行われるワークショップなどに参加して、そこで出会ったアメリカ人と仲良くなって一緒に時間を過ごすと、度々カルチャーショックというか、自分の「常識」が常識ではないことに気付かされることがあります。

もちろん個人の性格などに依るものもあるかもしれませんが、それでも一度や二度ではないそれらの体験は、日本人としての自分の「常識」は、日本という風土において外から刷り込まれたものでしかないとわかるのです。

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例を二つほどあげてみます。

あるワークショップの休憩時間に一人で庭を歩いていたら、前日知り合いになったある女性が椅子に座って泣いていたので、つい気になって声をかけたら、彼女のお財布がどうやら盗まれてしまったらしいとのことでした。

ホテル側には届けてあるようでしたが、ワークショップに参加する気持ちになれないらしく、外にいたようです。

そして彼女は私に、受付をしているあるスタッフの女性に、彼女のもとに来てほしいと伝言してほしいと頼まれました。

休憩時間はもうそんなには残っていなかったので、私は小走りに受付へと向かったのですが、そのスタッフの女性は、少し前に講師としても素晴らしいパフォーマンスを披露していたので、何人もの人に囲まれて話をしていたのでした。

私は伝言を彼女に伝えたのですが、私の予想とは全く違う答えが返ってきたのです。

彼女は、休憩時間はあと少ししか残っていないこと、今まで参加者たちの質問に答えていたのでまだ自分がトイレなどにいっていないこと、それを優先する事の方が自分にとっては大切なので、その人のところへは行く時間はないとのことを、理路整然と話すのでした。

目が点になってしまったというか、日本的な発想をしていた私は、スタッフは自分のことを後回しにしても、困っている人の元へ駆けつけるものだと思っていたので、その凛とした返答に心底驚きました。

後で、私に伝言した人はちょっとした「困ったチャン」の人であったらしいこと、お財布を無くしたいきさつも、前夜にお酒を飲んでいて起こった出来事らしいということを知ったので、そのスタッフの女性の厳しさの意味も納得がいったのですが、それでももし自分だったら、そのように答えることができただろうかと考えました。

たとえトイレを我慢しても、先にその人の元へと行き、伝言してくれた私にも丁寧にお礼を言うのではと思ったのです。

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そしてもう一つ。

アメリカ人の友人が、部屋で少し寒そうなそぶりをしたので、「エアコンが寒いかな?温度をあげようか?」と言った時に、いきなりきつい言い方で、「私は自分がしてほしいことがあったらちゃんと言います。勝手にあれこれ探るのはやめてほしい。」と言われたのです。

その様子から、私は自分が気づかないうちに、その時だけではなく何度か同じように、相手の様子を探って先回りして何かを聞いていたのだなとわかりました。そしてそれが、その人に不快感を与えていたようなのです。

日本でなら「気遣いのできる人」と称賛される(かもしれない・・笑)行動で、私は軽く叱られたのでした。目から鱗が落ちました。


日本のサービス業が「どんな難題にも笑顔で全力で対処する」ようなことを良しとする風潮がある時代に生まれ育ち、小学校のクラスの黒板の上には「人の気持ちになって考える」という標語が掲げられていたのを毎日読まされていた私は、知らず知らずに、自分のことよりも相手のことを優先させて考えることが素晴らしいと思う思考回路を持ってしまっていたのでした。

誤解のないように付け加えますが、気遣いのできる人がダメだと言っているのではありません。

自分を後回しにして他人の為に尽くす行為を優先させることは、必ずしも素晴らいのではないだと気付かされたのです。

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「我儘(わがまま)な人」は、日本では嫌われることが多いかと思います。「我儘=自分を優先させる人・自分がやりたいことしかやらない人」という定義になるでしょうか。

しかし前述のアメリカ人達のような感じの方達も、日本ではこの定義に含まれてしまっているような気がしています。

「ジコチュー(自己中)」という、昔はなかった言葉が市民権を得ているのも、日本でも徐々に人々の在り方が変わってきている現象なのではと思うのです。

個人的には、ジコチューで無い人の方が思いやりがあり優しい人が多いので私は好きですが、それでもその好きだと感じる人達には、もう少しジコチューになってもらってもよいのでは?と最近思っています。

我儘な人、もしくはジコチューな人を嫌う人は、自分はそうではない人達です。自分がやっていない「まず自分」を易々とやっている人に腹が立つのです。腹が立つというのは、本当は自分もそうありたいのに、自分がそうではないからです。

「我儘な人・ジコチューな人」と人からレッテルを張られている人は、多分他の「我儘な人・ジコチューな人」には寛容なのではと思います。自分が自分を一番にしている人は、他の人が自分を一番にしても、それは当たり前だと思うからです。

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「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉がありますが、それは自分の気持ちを後回しにして、全体のことを優先させるというのとは違うような気がします。

一人一人が自分の気持ちを大切にして、それをお互いに尊重しあい、すり合わせることができる部分とそうではない部分を明確にすることは、決して和を乱すことにはならないでしょう。

自分の気持ちをなかなか言えないからこそ、お互いに察しあうのをよしとする日本の文化は、少し何かがずれているような気がするのは私だけでしょうか。

自分を大切に扱っている人こそ、本当の意味で相手を大切に扱う事ができると思います。

言えずに飲み込んでいることを、勇気を出して伝えていくこと。それは決して我儘でもジコチューでもないのだと思うのです。

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行きたいワークショップならアメリカでもどこでも出掛けていく私は、我儘・ジコチューな人間とそしりを受けそうですが、我が家では「変な人」としか言われることはありません(笑)

そして、それを家族に笑顔で受け入れてもらえるようになっている今は、かつてないほど家族と愛を分かち合っていると断言できます。

自分に与えているものは、家族にも惜しみなく与えることができます。
自分に与えれば与えるほど、周りの人達にも与えることが可能になります。

まず自分を大切にすると、心から周りの人達をも大切にできることを知ることは、自分のみならず周りの人達をも幸せにしていくという素敵な道です。

我儘もジコチューも、すべての人がそうなった時にはベクトルがうまくかみ合い、最高の調和が生まれる世界が現れるのではと思っています。









自己否定感が存在する理由・・の考察

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時々、どうしようもない劣等感、自己否定感に押しつぶされそうになることがあります。

それがどういうものか、どういうメカニズムで起こっているかがわかっていて、どう対処したらよいかもわかっていても、なかなかそこから離れられない自分を、少し情けなく思いながらもその感覚と同居しています。

少し前から、それがまたやってきていました。

それはずっと自分の中に在り続けるのではなく、セッションをしていたり、セミナーをしていたり、誰かと話をしていてその人の光に焦点を当てて、それを伝え励ましているときは、跡形もなく自分の中から消えています。

つまり、自分のことにしか向き合う必要が無い時に(平たく言うと暇なときに・・笑)、何かにスイッチを押されてむくむくと反応が起きているようなのです。


そして今朝、洗面所で身仕度をしている時に、それが何のために起こっているのかのヒントがやってきたような気がしたのでした。

セロトニン不足とか、そういう機能的なものももちろんあるでしょうが、この劣等感や自己否定感は、何度も繰り返してきた輪廻転生における過去の自分の経験値の賜物であり、プラスして、今世で成し遂げようと計画してきたことを遂行するための安全装置なのではと思ったのでした。

劣等感や自己否定感は、決して持つ必要はないものですが、それでもそういうものに翻弄されやすい性質を持っているということは、エゴを肥大させて、本当に大切なことを見失わないようにとの自己抑制装置なのではと思い至ったのです。

私がこれまで出会ってきた人達で、自己否定感が強い人のほとんどが、とても心の美しい優しい人達でした。

そしてその人達は、実はその美しい波動で、世界に大きな影響を与えていく力とパワフルさを秘めていることが私にはよくわかりました。

それを封じ込めていることのプラス面とは何か?それはマイナスでしかないのでは?とずっと思ってきたのですが、今朝、それは彼らがその真なる資質をエゴで捻じ曲げて発揮する事のないようにとの、内なるストッパーなのではということを閃いたのです。

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私自身のことで恐縮ですが、数年前ある出来事で自分自身が打ちのめされ、自分への信頼が砕け散り、もうあの世へ戻りたいとまで思った日の翌日に、前から予定されていたセミナーがあったことがありました。

自己否定などという生易しいものではない心理状態だったのですが、セミナーが始まった途端に私のスイッチが入り、それが終わるまでの間ずっと、私はその死にたいほどの自己嫌悪感・自己否定感から全く離れており、苦しさのかけらもなかったのでした。

しかし夕方、すべてが終わって参加者の皆さんが帰った途端に、前夜の苦しさがまた自分の中に浮かび上がってきたのを覚えています。そしてそれは、私がエゴの範疇にある時と、そうでない時の違いをはっきりわからせてもらった体験となりました。


発達障害と呼ばれるクォリティーを内に持つ人達は、セロトニン不足に陥りやすく、自己否定感にさいなまれることが多いと言われています。

私自身もそのタイプであり、器質的に起きている部分であることも理解した上で、更なる洞察として降りてきたこの考えは、私と同じようなタイプの人達には一筋の光になるように感じました。

私が自己否定の苦しさと全く離れていられたのは、自分の内なる叡智を他の人々と分かち合い、エゴを介在させず、ハイヤーセルフとしっかりと繋がっている状態の時でした。

自分自身のパワーを、真の自分が望んでいるものとぶれずに発揮するために、強すぎる自己否定感が備わっているのではと考えてみることは、これまでとは違った視点をもたらすのではと思うのです。

そして、よりその感覚が強くなっている時は、実は自分自身のパワーをフルに発揮する時が目前に迫っているからなのかもしれません。

過去世で繰り返してきた過ち(自分がそう思っているもの)を再び起こすことなく、エゴによって自分を狭小に見ているところからの発信でもなく、真に自分の光をこの世界に発し、自分自身を世界と分かち合う時がすぐそこにやってきていると気付くためのお知らせなのかもしれません。







「子どもたちに対して、あなたにできることはひとつしかない」

友人がシェアしてくれていたOshoの言葉。

私自身も長い年月において子育てにおいて取り組んできたことが、この文章にすべて集約されています。

子育ての最初の10年の間に触れることができていたなら・・(涙)

いや、やっちまった自分だからこそ、体験を伴っているからこそ、ここに書いてあることが真実だとわかることに意味があるのかな(笑)

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子どもたちに対して、あなたにできることはひとつしかない。 


それは、あなた自身の生を分かちあうことだ。 



子どもたちに、自分もまた親から条件づけを受けてきたことを話しなさい。 


特定の理想に従い、特定の制限の中で生きてきたこと、 

そして、こういった理想や制限のために、 

すっかり生を無駄にしてしまったことを話しなさい。 


そして、自分はおまえたちの生を損ないたくない、 

完全に自由でいてほしいと、話しなさい。 

親の自分から自由でいてほしい、と。 



なぜなら子どもたちにとって、 


あなたは過去そのものを表しているのだから。 

子どもたちに、そう伝えるには勇気がいる。 

父親と母親には、途方もない愛情が必要とされる。 



「お前たちは、私たちから完全に自由でいなければならない。 


私たちに従うのではなく、自分自身の知性に基づいて行動しなさい。 

たとえ道に迷ったとしても、盲従したまま、 

いつも正しいことをするより、はるかにましだ。 


自分の考えで行動して間違いを犯し、そこから学ぶほうが、 

他の人に追従して間違いを犯さないよりはいい。 

間違いを犯さなかったところで、 

人に追従する以外は何ひとつ学ぶことにならない。 
 
そして、人に追従することは害になるだけだ」 


これは、あなたに愛があれば、いともたやすいことだ。 

私に「どうすれば」と訊かないことだ。 

「どうすれば」という質問は、手順や方法論、 

テクニックを求めているということだ。 

だが、愛はテクニックではない。 

子どもたちを愛し、彼らが自由であることを楽しみなさい。 


彼らが間違いを犯すままにさせ、どんな点で間違いを犯したのか、 

自分で理解できるように手助けしてやりなさい。 

子どもたちに、こう言いなさい。 



「間違いを犯すことは悪いことじゃない。 


いくらでも、たくさん間違うがいい。 

これこそが、より多くのことを学び続ける方法だからだ。 
 
だが同じ間違いを何度も繰り返してはいけない。 
 
そんなことをしても、馬鹿になるだけのことだ」 

 

結局これは、私から単純な答えを得て済む問題ではない。 


あなた自身が、瞬間から瞬間へと子どもたちとともに生き、

些細なことにおいても、彼らに最大限の自由を与え、 

あなた自身が、答えを見つけ出さなければならない。 



 (Osho : バグワン・シュリ・ラジニーシ、1931年12月11日 - 1990年1月19日は、インドの宗教家、神秘思想家、20世紀の覚者。 21歳の時、ジャバルプールのバンヴァータル庭園にあるモールシュリの木の下で光明を得る。ーウィキペディアより)


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