Cerulean Blue (セルリアンブルー)

Believe in yourself. You are loved.

思うこと

「痛み」を手放さない人達

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人は「痛み」を嫌がるものだと、ほとんどの人は思っていると思います。

確かに、肉体的な痛みが嬉しい人というのは、そう多くは無いでしょう。(一部にそういう嗜好の方はいるかもしれませんが。笑)

しかし、「心の痛み」を愛してやまない人と言うのは、実はとても多いのです。

それは、自己憐憫に陥るための出来事を自分の人生に引き起こし、自分が可哀想であることを味わい、悲劇の主人公になることで人生をドラマチックに体験するという、ある意味中毒のような喜びを味わい続ける人達です。

それはちょうど「悲しい物語」を読むことでカタルシスを得るような感覚に似ています。可哀想な自分を憐れみ、涙し、苦しみ、他人を恨むことで自分を悲劇の主人公に仕立てあげます。

起こる出来事は全て自分が創造した世界であることを忘れ、その責任を放棄し、誰かを恨み、苦しみ、悲しむことで、カタルシスを味わっているのです。

ある意味これは麻薬のような感覚です。苦しい、悲しい、と言いながら、やめられないのです。

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かくいう私自身も、この悲劇の主人公を演じる人生をかなり長い間味わってきました。

それは、ある意味自分の中に握りしめているパターンのようなもので、そのもだえるような切なさや悲しみ苦しみは、自分の人生を彩るものでもあるのです。

何もない平穏無事な幸せな生活よりも、刺激があり興奮する訳です(笑)

自分は可哀想な人間だという感覚に浸ることで、生きている実感を味わうのです。

こうして書かれているのを読むと、なんとナンセンスなのだろう!と思う事でしょう。

しかし、その苦しい喜びを楽しんでいる人は、思いのほかたくさんいます。

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例えば、私の母は、その「痛み」を味わう喜びを80歳になった今でも手放しません。

最初は自分を養子に出した実父を恨み、次は自分の人格を認めなかった義父を恨みました。

その恨みを手放せないまま結婚した後は、夫のせいで自分の人生が破壊されていると主張しました。

自己憐憫の権化と化していた母は、可哀想な自分を主張することで、娘の私の人生を支配しました。

可哀想な親を幸せにしたいと、母を喜ばせることを一番にして、自分自身の人生を放棄して生きてしまった私は、結婚してから自分の人生に母と同じようなパターンを作りだしてしまいました。

「自己犠牲を強いられる私」という自己憐憫のパターンの中で生きてしまった私は、それを次には子供に受け渡してしまうところでした。

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幸いなことに、途中でその甘美な「自己憐憫ゲーム」に気付くことができたおかげで、子供に同じように自己犠牲の人生を歩ませることをせずに済みました。

前述の母は、80歳を超えた今現在でも、この甘美な「痛みを抱きしめる人生」、「自己憐憫ゲームを楽しむ人生」をエンジョイ(!?)しています(笑)

常に誰か「敵」となる人物を自分の人生に作りだし、その人がいることでいかに自分が不幸であるかを嘆くのが、彼女の大好きなパターンです。

数年前に父と別居するようになり、一番の敵がいなくなったら、次は新しい敵を見つけようと、次々に子供達をターゲットにしています。

40年もの間、母の痛みに付き合い、彼女の自己憐憫ゲームに加担していた私は、そのゲームから降りた途端に、新たな「敵」にされてしまいました(笑)

親不孝者のレッテルは、今の私にとっては勲章のようなものだと言えるでしょう。

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「痛み」を愛する人は、決して自分からそれを手放そうとはしません。

それゆえ、その「痛み」さえ持たずにいたなら、決してその人の元を去ることなどない人まで、自分の前から去っていく人生を創りだします。

なぜなら、誰かに愛されて側にいてもらったら、「痛み」を感じることは難しいからです。

こうして悲劇の主人公は出来上がります。

大好きな人に去られて、悲しい可哀想な私・・・それを望んでいるのが自分だとは、何故気づかないのでしょうか?

いつも我慢して虐げられる可哀想な私・・・我慢も、虐待も、自分がそれにNOと言って、そこから立ち去ればよいのです。

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自分の人生を創っているのは、間違いなく自分でしかないのです。

「痛み」を持ち続けることをやめさえすれば、誰でも幸せに満ちた人生を送ることができるのです。

「引寄せの法則」は、楽しい事や嬉しい事だけに働くのではありません。

「痛みを持ち続けて、悲劇の主人公でいたい」という望みさえも、すみやかに叶えてくれるのです。


私は、自己憐憫を持ち続けて悲しみを楽しむ人生には、ほとほと疲れたので、それを止めることにしました。

長年培ったパターンを手放すには、何度も失敗や繰り返しをしてしまいましたが、「自己憐憫の涙は二度と流さない」とかつて私にそれを教えてくれた人に誓ってからは、その頃とは比べものにならない幸せな毎日を送れるようになっています。


痛みを抱きしめる人生・・それが楽しいのなら、存分に味わえばよいのです。

でも、それが苦しくて切なくて悲しくてならないのなら、痛みを手放し、自己憐憫の涙は流さないと決めてみてはどうでしょう?

愛する人達に囲まれて、自分の創造力は幸せな人生を創るために使い、笑いにあふれた毎日を送ってみるのはどうでしょう?


人生が思うように行かない、なぜ自分はこんなに可哀想なんだろう?と嘆いている人に、このメッセージが届くことを心から願っています。

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「優しさ」と「甘やかし」について考える

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一般的には、「優しい」という言葉は、ソフトで穏やかで、耳に心地よいことを言うというイメージがあるような気がします。

「優しい人」と呼ばれている人は、相手の気分が悪くならない言動をしている人、決して相手を怒らせたりはしない人、ぶつかったりはしない人、であることが多いのではないのでしょうか。

しかし実際に「優しい」ということは、相手のことを心から想い、相手に最も必要なことを言ったり、そのように接することだと私は思うのです。


例えて言うなら、子供が欲しがるからと、欲しいだけのジャンクフードやお菓子を与えるお年寄りは、子供にとっては優しいおばあちゃんかもしれませんが、本当にその子に優しいのは、子供の健康の事を考えて、過剰なジャンクフードやお菓子を与えない親のほうだと言えると思います。

それは、子供にとっての「優しい人」は、実は「甘やかす人」でしかない例です。

厳しい親などに育てられている人には、そういう「甘やかす人」も時には必要なのかもしれませんが、そこに逃げ込んでばかりいては、その子供の成長は阻害されると思うのは、私だけではないでしょう。

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実は、これまでの人生で私が受け取った、感謝すべき「優しさ」の半分以上は、聞いた瞬間にはとても厳しい言葉の数々でした。

しかし不思議なことに、その時には頭をが~んと殴れらたようなその厳しい言葉を、呆然とした中でも受け取ろうと努力した果てに得たのは、深い気づきと、その方達からの深い愛情でした。

過去に、私にそういう言葉を発してくれた人は何人かいるのですが、今でもその瞬間の自分の衝撃を思い出すと共に、それを発してくれた人達の、自分がどう思われるかより私のことを考えてくれた、その愛情の深さに感謝の気持ちが湧き上がります。

もし私が、その時にその言葉に反発して、本当に受け取らなければならないことを受け取ることができなかったならば、今の私とは全く違った私になっていたことがわかるからです。

本当にその時々の私は、ギリギリのところにいたのだと、思い返すと冷や汗がでます(苦笑)

見るべき自分の姿を、何より自分自身が目を開いて見て受け入れるというプロセスにおいて、それが必要だったことがわかります。

その時々に頂いた厳しい「優しさ」は、誤解されることを恐れずにそれを伝えて下さった方達からの、勇気ある愛そのものでしかなかったと思うのです。

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しかしその反対に、私にそういう厳しい「優しさ」を与えてくれた人のことを、恨んで悪口を言って、その人から距離をとった知り合いもいます。

その知り合いは、多分とても耳の痛いことを言われたのでしょう。そして、自分がそれを受け入れないことを自分自身が見ないようにするために、それを伝えてくれた人を恨んで悪口を言いふらしたのだと思います。


今、別々の人から与えられたそれらの厳しい優しさを思い出すとき、そのすべてのタイミングが私にとって人生の岐路になっていたことがわかります。

もうご縁のない方がほとんどですが、その時のその方達の優しさは、一生忘れません。

彼らから教わった、相手のためを思って真実を伝えてくれる勇気を、私も見習って生きていきたいといつも思っています。

時には伝わりきらずに、反対に悪く思われることもあるかもしれませんが、それでもその結果に執着しない自分でいたいと願っています。

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子育てにおいても、人生で出会う人達との間においても、いつも自分の深くからやってくる真実・真理と共にありたいと思います。

完璧ではないのが人間ですが、それでも真の「優しさ」を生きることを願い、「甘やかし」でお茶を濁すことはしたくないと思うのです。


自分にも相手にも正直であること。何より、自分自身に正直であること。

そうやって生きる時には、自分にも他人にも「甘やかす」のではなく「優しく」できるのではと、私は信じています。



なぜ人間は、甲羅ではなくて柔らかな皮膚を持っているのだろう?

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『プライドが高い』は『自己価値が低い』ことである事が多い」と銘打った前回の記事に、いつもより多くの反応がありました。

蟹の甲羅、亀の甲羅、ハリネズミの針、貝の貝殻などのように、「高いプライド」で身を守っている人は、その中身が多分人より柔らかいのです。

その柔らかさゆえに、自分を「守る」ものを張り巡らせているのでしょう。


私はたまに、人間の皮膚は何故こんなに柔らかく生まれついているのだろう?と考えることがありました。

鉄骨が落ちてきたらひとたまりもないし、こん棒で殴られたら、あっという間に骨が折れます。

ちょっとした棘が刺さっても痛いなんて、なんか理不尽な作りだな~と思っていました(笑)

でもそれが何故なのか、今はわかる気がしています。

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私達のこの柔らかい皮膚は、自分以外の人と触れ合い、抱きしめあい、互いをしっかりと感じ合うためにあるのではないかと思うのです。

蟹の甲羅のように外側に厚く壁を作っていては、お互いを深く感じ合う事はできません。

子供を作ることもできる性行為などは、究極の触れ合いです。

外側の皮膚で慈しみあうのみならず、互いの内側まで入ることを許可することで、そこに宇宙が生まれ、そしてあちら側の世界からスピリットが下りてくる物質化現象までを起こせるのです。

外側が柔らかいことの素晴らしさを、そこに深い意味があることを、私達は意識的に受け止めてみてもよいのではないでしょうか。

そして、せっかく柔らかい皮膚で生まれてきた私達なのですから、互いを傷つけあうのではなく、自分を防御するのではなく、心を開いて、相手を信頼し、自分を信頼し、愛を分かち合うという人間の原初の目的のために生きてみたいなと思うのです。

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『自己価値が低い』ことには、成育歴や、持って生まれた気質や、発達障害という側面や、さまざまなことが影響しているかもしれません。

しかしそれらは、あくまでも「自己」が、つまり自分が自分を低く認定しているだけでしかなく、自分が思うこと感じることは、自分で変えることは可能なのです。

柔らかな自分の肌に触れてみませんか?

まず、自分が自分の、この無防備な身体を受け入れ、その本当の意味を知って生きると決めてみませんか?


心はあくまでも自分のものです。

肉体は外から傷つけられることはあっても、心は自分が許可を下ろした時にしか傷つかないのです。

例えば、2歳の子供に「おばちゃん、なんでお顔に線がいっぱいあるの?」と聞かれても、「これはね、しわっていうんだよ。」と笑顔で応える人と、むっとする人に分かれると思います。

2歳の子供は単に、見えたことをそのまま聞いただけで、そこには何も悪意などないのに、受け取る側で感じることが違うのです。

「子供って面白い表現するな~」と思う人は笑顔になります。でも、アンチエイジングに励んでいた人は、「私、やっぱりしわが多いのね!」と傷つき落ち込みます(笑)

相手が発した言葉をどう受け取るかは、あくまで自分次第でしかないのです。

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勇気を持って、自分自身をそのまま見つめて、そして心を開いて目の前にいる人と繋がってみませんか。

柔らかい皮膚を持って人間として生まれてきた私達は、お互いの温もりを感じるために、今ここに生きているのです。


前回のハワイ島リトリートで、気が付いたらテーマソングになっていたJupiterの歌詞は、まさにそのことを表していたのだなとも思えるのです。


Jupiter

Every day I listen to my heart 
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながってる
果てしない時を 越えて輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙(そら)の御胸(みむね)に抱かれて

私のこの両手で 何ができるの?
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じて あげられないこと

愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂(しじま)に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに





「プライドが高い」は「自己価値が低い」ことである事が多い

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少し前に家族に起こったことなのですが、明らかにあちらが謝罪してもよいのでは?と思う出来事がありました。

当然そういうメールがくるかと思っていたのですが、あくまでも「すみません」を言わないでおこうとする意図の返信しか来なくて、あろうことかそのミスの原因を他人になすりつけようとまでし始めたので、呆れてしまったことがありました。

あまりにも謎な行動だったので、怒りを通り越して不思議だったのですが、先日吉濱ツトム氏の新刊『隠れ発達障害という才能を活かす逆転の成功法則』を読んでいて、その謎が解ける記述を見つけました。

(以下、抜き書きです。)

≪謝れない、または謝りすぎるのは自信のなさの現れです≫


隠れ発達障害さんの中には、何か失敗をしてしまったとき、あきらかに自分に非があったとしても決して謝らない人がいます。そうかと思えば、異常なほど恐縮しきって、ひたすら謝り続ける人もいます。

謝れない、ひたすら謝り続ける、両極端な対応ですが、どちらも自信のなさからきています。隠れ発達障害さんは、症状として劣等感が強く、自分に自信を持つことができません。

まずは、「非を認めて謝るというのは、自信があるからこそできる誇り高い行動である」ということを認識しましょう。

自信がない人はそれを隠そうとしてプライドが高くなっていきます。このプライドとは、誇りからくる本物のプライドではなく、弱い自分をなんとかして守ろうとする「見せかけのプライド」です。

(吉濱ツトム著 『隠れ発達障害という才能を活かす逆転の成功法則(徳間書店)」 より引用)


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これを読んで、なるほど~!と、その人の行動を理解しました。

これまでのその人の不可解な行動のいくつかも、発達障害ゆえの思考回路であるのだということがわかり、むしろその理解が来たことに喜びさえ覚えました。

自分のミスを素直に謝ったりできないとか、ちょっとしたことに反応してしまうプライドの高さというのは、その裏に隠された「自己否定感」と繋がっているということは、多分そうしている本人は気づいていないことが多いのではと思うのです。

過去にうまく行かなかった人間関係に、この要素が潜んでいたことが多いのではと、今さらながらに自分の知識・認識の足りなさを思い返し、少し残念な気もします。

このことを証明するかのように、前述の、当事者には決して謝ることのなかったその人が、間に入った人には素直に「申し訳ない」を言葉と態度で表してくれたのでした。

そこで第三者を通じてそんな風に謝るくらいなら、最初から当人に謝罪すればよかったのに・・と思いましたが、それができないところが、「自信のなさからくるプライド」というものだったのだなと納得しました。

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私が定義する「発達障害」とは、「未来型の人間」のことであり、決して俗にいう「障害」の認識ではありません。

脳の機能に凹凸があるがゆえに、とても秀でた部分と、うまくできない部分が合わさっている、「生きるのがあまり上手にできない人達」、そして「生きることが辛いことの多い人達」、しかしこれからの未来に「とても必要な人達」です。

特に「アスペルガー」と呼ばれる人達に多い、この自己否定感に基づく「プライドの高さ」を理解する時、その性質を云々するより、自己否定感があるために起こっているという事実を知り、それを認め、それを利用することを考えるほうがよいのではと思うのです。

吉濱氏のアドバイスは、下記のように続いています。(今回の本は、発達障害の人がうまく仕事をするためのヒントが書かれています。)

この見せかけのプライドが高いと同時に、「絶対的な信念」を持っています。これは、信念という軸を通していなければ自分を支えられないからです。自信が弱い分を信念が補っているのです。

良くも悪くも強固な信念ができあがっています。この信念は、仕事をするうえで大きな力になることがあります。信念というのはある種の思い込みです。その思い込みが人とは違う感性や考え方をつくり、独創的なアイデアを生み出します。

(吉濱ツトム著 『隠れ発達障害という才能を活かす逆転の成功法則(徳間書店)」 より引用)


このような知識は、自己認識も他人のへの認識も助けます。

今回、家族と私がむっとした出来事が、実は理解することができる現象だったとわかったことで、必要のない怒りは手放すことができました。

しかし、当の本人にとっては、いつも相手がこういうふうに理解してくれるとは限りません。相手に不信がられたり、嫌われたりしてしまうことも起こることでしょう。

心地よくない現実を起こす可能性がある性質を自分自身が理解し、その解決策と真摯に向き合うことは、自分を生き易くする道を開くのではと思います。

欠点と見られていることを長所へと生かす視点は、多くの「生き辛さ」を抱えている人達への大きな励ましになるのではないでしょうか。

吉濱さんのHPや他の著書もとてもお勧めです。
吉濱ツトム公式ウェッブサイト

私の過去の発達障害の関連記事は以下へどうぞ♬

『隠れアスペルガーという才能』
才能について① ~才能とは?~

『マイナスの症状をプラスに転換する』~ ①

『カサンドラ症候群』を考える ①





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天然の岩盤浴をご一緒にしてみませんか?笑




「怖がり」とは?

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「怖がり」というのは、「変化を怖れる」という事と同じです。

何を怖がっているかというと、自分がこれまで握りしめてきた観念を手放すのが怖いということです。

現在、地球上のエネルギーがどんどん変容しており、私達は昔の重い周波数の時にうまくいった「やりかた=観念」では、この世界でうまく生きていくことはもうできないのです。


例えば、昔は「体罰」というものが有効な子供達への矯正法でした。私の小学校3年生の時の担任は、何か悪いことをした生徒がいたら、クラスの前へ立たせ、「歯を食いしばれ~!」の号令と共に、頬を平手打ちしていました。

それでも、その若い男の先生は、お天気が良いと時々授業を投げ出して外へ遊びに連れて行ってくれるような人だったので、子供からは絶大な信頼と人気を得ていました。

私もその先生のことは大好きでした。なぜなら、平手打ちにも、ちゃんと愛がこもっているのを感じていたからです。


しかし、今の子供達の高い周波数には、もうそのやり方は合いません。彼らを殴ったりしたら、それは、繊細な彼らを痛く傷つけ、それを愛だなどと思う事は絶対にありません。

地球そのものの波動がまだ重かった時にうまく行ったやり方は、もう今では通用しないのです。そこに愛があるとかないとか、ではないのです。

平手打ちは、重い波動の時代の原始的なやり方なのです。(言葉の暴力よりも、肉体的な暴力は、絶対にやってはいけないのです。それは、エーテルを壊します。エーテル体の修復は、とても時間がかかるので、軽やかな波動の人間には、ダメージが大きすぎるのです。)


しかし、その時代にうまくいったからと、今でもそれをやっている年配の人や、その人たちに育てられた人も存在します。

そして、それはもううまくいくことはないので、色々な問題として浮かび上がり、社会問題のようなものにまでなってしまうのです。(例えば、会社などにおいて起こっている「ゆとり世代」と呼ばれる平成に生まれた子供達と、それ以上の年代とのギャップなどです。)

そういった、もう今ではうまく行かないやり方を握りしめたまま、それを手放して新しく機能するやり方を手にするのを怖れているのが、「怖がりさん」の正体です。 必要のない古い観念を握りしめていることで、過去にうまくいったという証拠(実は自分自身にとってはうまくいってないのに、それでもそのやり方に慣れ親しんでいるというだけなのに・・)を手放したくないのです。

それらは、親や社会からの刷り込み以外の何ものでもありません。 何より、自分自身がそのやり方でうまくできなかったことほど、それを握りしめたり、自分の子供や周りの人達に投影したりするのです。
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あなたは、その観念を握りしめていて、本当に幸せなのでしょうか?

自分がうまくできなかったこと、今でもそれができなかったことに罪悪感を抱いていることを、この先もずっと握りしめて、苦しいまま進んでいってもよいのでしょうか? どうせ、それはうまく行っていないのです。苦しさはここに存在しているのです。

ならば、思い切って、そのうまくいかない観念を手放し、自分が自分らしく、心地よく幸せに生きられる「かもしれない」新しい考え方で生きてみてはどうでしょうか?! 「かもしれない」と書いたのは、それをするもしないも、あくまでも自分次第だからです。 自分自身が古い観念を握りしめたまま、新しい視点で生きることをしようとしても、「やっぱり、うまくいかないのだ!」という現実を引き起こしてしまうからです。 なので、その意識を変容させる時には、とても勇気がいるわけです。 うまく行っていない古い観念を手放すと、完全に決めなくてはならないからです。

それはまるでまだ飛んだことのないバンジージャンプをするようなものです。怖くて当たり前だと思います。
こんなことを書いている私自身も、実はかなりの「怖がり」だったことを自覚しています。今でもそれがないとは言えません。 それでも、その怖さを思い切って飛び越え、古い観念を手放す作業を何度か繰り返してきたことで、これまで想像もできなかったような、以前と比べると格段に自由で心地のよい現実を手にしているのは間違いありません。
「怖がり」の自分を楽しんで(!)いた期間が長すぎたことを、今では少し後悔しています。

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もう一つ「怖がりさん」の怖れていることは、今自分が定義している「幸せ」以上の幸せはないかもしれないということです。 何より自分の可能性を狭めて定義しているのは、自分でしかないということを知ってほしいと思います。
今一緒いる友人や家族が、自分が手にする最上のものかもしれないと、勝手に思い込んでいるのです。

そうではありません。 今、自分が本当の自分を生きていると思えない人にとっては、その周りに存在している人々は、あなた自身を映し出している鏡のような存在でしかないのです。 自分を大切に扱っていない人は、あなたを大切に扱わない人としか出会えてはいません。

自分が自分のやりたいことにストップをかけているからこそ、あなたをストップする人達に囲まれているのです。 私達は、自分が想像している以上にパワフルな創造者なのです。自分の人生を、自分が望むように作っているのです。

「怖がり」とは、あえて自分の人生をより軽やかで幸せな方向へと向けることを躊躇している人のことです。 そのゲームを楽しみたいのなら、とことん楽しめばよいのですが、もし「怖がる」ことにもう飽き飽きしているのなら、ただ自分が次のステージに行くと決めるだけでよいのです。 怖がっている自分を楽しみたいなら、「次に行きたい」などと言うのは、嘘つき呼ばわりされるだけです。

とことん自分に正直に生きるほうが、むしろすがすがしいのかもしれません(笑)


結論ですが、「怖がり」というのは、苦しいことをするのを怖れている人ではなくて、苦しいままの場所に居たいのに、それを誤魔化してそこから出たいという人のことだと言えるのではと、私は思っています。(むかついた人がいたら、スミマセン!笑)
「怖がりさん」のあなたも、仲間と一緒にバンジージャンプしてみませんか?笑
一人ではできないことも、魂の仲間に出会うことで共に乗り越えていくことができるかもしれません。心の奥で「行きたい!」の声が聴こえたあなた、お待ちしています♬(飛行機の手配などがありますので、お急ぎください!!)


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『マニュピレーター(操る人)』~それはあなたの心の声ですか?

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『マニュピレーター』・・これは、日本語では「人を操る人」と言う意味ですが、何も犯罪を犯すとか、誰かをだますだとか、そんな物騒な事を意味しているのではありません。

ほとんどの人にとってのマニュピレーターは、親です。

物心つく頃からの洗脳ができる最高の環境(笑!)を手にしている人ですから、マニュピレーターになるにはうってつけです。

マニュピレーターは、「~でなければいけない」・「~をしてはいけない」などと、幼い頃から巧妙に子供の心に刷り込んでいきます。

もちろん、子供の心身を守ったり、お互いが気持ちよく生活するために必要な躾というものは存在するでしょうが、それ以上の親の葛藤や偏見、その子供の魂が望む生き方をサポートする方向性ではない刷り込みをする親はたくさんいます。

そんなことは全くしない素晴らしい親もいるのですが、もしかしたら少数派なのかもしれません。

怖いのは、自分がマニュピレーターに育てられたという自覚がないまま、大人になった自分の人生を、まるで自分が選び取ったように錯覚して生きるようになることです。

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現在進行形で、更なる「操作」を親から受け取り続けている人も多く見受けられます。

何を隠そう(隠れていないかもしれませんが。笑)、私自身は両親、特に母親からの「操作」に本当につい最近まで完全には気づかずいた人間でした。

なぜなら「操作」は、「愛情」という、良く似てはいるけれど全く別物の顔をして、親と自分との間に横たわっているからなのです。

子供時代に「純粋な愛情」(相手に何かを期待する愛ではなく、無償の愛)を受け取っていない人ほど、この錯覚に惑わされたまま、大人になっても親の期待を自分の望みと勘違いして生きてしまいます。

私自身が、そのことに「はっ!」となったのは、ひょんなことでした。

数年前に、もしかしたら日本を出て他国で生きていくことになるかもしれないという事情になった時に、ものすごい解放感を感じた自分がいたのです。

自分でも驚くような大きな解放感だったので、後になって、その時の自分の心の中を探ってみたら、そこにあった一番解放されたかったものは、他の誰でもない実の両親でした。

不謹慎ですが、長い間葛藤を抱えていた姑が亡くなった時にも、悲しみが少し癒えた後に、なんとも言えない解放感を味わったことがありました。

そのどちらも、実は自分自身の心の奥底では、彼らに存在によって自分が自分であるように生きていなかったことを、ちゃんと知っていた私がいたのだとわかります。

姑との死別や、両親と別れて暮らすことになるかもという現実を手にした時に感じたあの軽やかな明るさは、自分からは積極的にできずにいたことが、不可抗力によって為されるための自由になる感覚だったのだと思います。

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私達は、親や社会に刷り込まれて育ちました。「まず人のことを考えて、自分のことは後にしなさい」と。

子供のころ、自分が楽しく遊んでいるおもちゃを、横から「貸して~!」と泣き叫んだお友達がいたら、「お友達にも貸してあげなさい!」と親に言われてきたのです。

そうやって、自己犠牲をすることが尊いと、教えられてきたのです。

なぜなら、親の世代は、そうすることが美徳だという教えが世間にありました。

そうして、親自身が自分を犠牲にして、そのまた親や舅姑に仕えてきたので、それを下の世代にも要求するのです。

やがて親達が年寄りになったら、私達を大切にしろ!と圧力を無言・有言でかけてきます。

まだ年寄りになっていない親であっても、自分たちの価値観を私達の生き方に押し付けてくるのです。

私達は、そういう人達に育てられてしまったので、自分が「操作されている」ことに気付くのはとても難しいのです。

大切なおもちゃで、とことん自分が最初に遊ぶことを放棄することが美しいと勘違いをしているのです。

そうではありません。まず自分を満たすのです。まず自分を喜ばせてあげて心が満たされたら、必ずその後には他の人にそれを手渡すようになるのです。

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マニュピレーター(操つる人)に、自分が自分の心の声でない行動を、無意識に選ばされていることに気付かなくてはなりません。

私が、親から離れる機会を手にするかもしれないとなった時に感じた解放感が、心の声だったのです。

死んでいなくなった姑からの解放感を味わうことに、罪悪感を感じる必要はないのです。

もし罪悪感を感じるならば、生きている時から自由になっておかなかったことを反省すればよいのです。

マニュピレーター(操つる人)に自分の人生を支配されているかどうかは、とても簡単にわかります。

「何かをやりたい!」と感じるのに、あれこれと「できない理由」を考えて行動できないのは、ほぼほぼこのマニュピレーターの幻影が耳元で囁いているのです。

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昔、裕福な方と結婚した友人が、ある時宝石フェアで一目ぼれして、自分のために立派な宝石のアクセサリー(とても値段の高いものです!)を思い切って買いました。

彼女の経済状態からは、それは決して困難なことではなかったのですが、それを後で一人になって手にしたら「お母さん、ごめなさい!」と泣いてしまったと言っていました。

その友人のお母さんは、自己犠牲の権化のような方で、私も何度かお会いしたことがあったのですが、子供や夫のためにすべてを捧げて生きていた人で、本当に優しくて、ある意味「理想の日本のお母さん」といった感じの方でした。

自分のために決してお金を使ったりしないようなお母さんのことが大好きだった友人は、その高価な宝石を買う事にものすごい罪悪感を感じたわけです。(もちろん、お母さんに何かを言われたとかではありません。)

この、一見優しくて素晴らしいと感じるお母さんも、ある意味マニュピレーターなのです。

毒親というには憚りのある、優しいお母さんだったのですが、それでも友人は知らず知らずのうちに、親に「操作された」意識で生きていたからです。


毒親とは、自分のために子供を操る親のことです。

子供の魂の輝きを伸ばすためにサポートする親ではなく、自分のニーズを満たすために、子供をコントロールする親のことを言います。

一番ややこしく、難しいのは、一見「毒親」と見えない「マニュピレーター」かもしれません。

「あなたのために・・」「あなたを愛するから言うのよ」と、愛のふりをした言葉で、実は彼ら自身のために子供を操作しているからです。

もちろんこれは、親のみならず、夫や妻であったり、祖父母であったり、きょうだいであったり、時には友人であったりもします。

あなたが自分自身の心の声を聞くことを阻むことをする外からの力は、操作そのものでしかないのです。

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とことん、自分の心の声を聞いて下さい。

自分は本当はどちらに進みたいのか?自分は本当は何をしたいのか?

誰と一緒にいたいのか?誰と一緒にいたくないのか?


もう地球上の波動が、自分の心に嘘をついたり、見ないふりをしているままでは進めないように変化しています。

何が理由かわからないのだけれど、生きていることにしんどさや苦しみを感じる時は、あなたが「愛されている」もしくは「愛している」と信じているマニュピレーターが、自分の人生に存在してはいないかをチェックしてみるとよいと思います。


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自分の心の声、聞こえますか?
行きたい!と少しでも感じた声を、打ち消してはいませんか?
私達が開催するリトリートは、あなたの魂と繋がり、本当の心の声を生きることを自分に許可するための旅でもあります。
魂の仲間と出会い、最高に自分らしく輝く時間を一緒にすごしませんか?

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ハワイ島リトリート2018 ⑦ ~帰国 新たな出発~

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とうとうハワイ島を出発する朝がやってきました。

着いた日と同じく気持ちの良い青空の下、コンドミニアムから30分ほどの場所にあるエリソン・オニヅカ・コナ国際空港(最後なので昨年変更された正式名称で書いてみました。笑)へと向かいました。

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6日間お世話になったミニバンをレンタカー会社に返却すると、空港行きのバスを待つ私達の前にあったレインボーのナンバープレートの「555」の文字が目に飛び込んできました。

数字のシンクロ現象は、まさに今とても大切な気づきのメッセージとして受け取っているところだったので、この「555」は、「今から新しい世界が始まるよ!大きく世界が広がっていくよ!気を引き締めて進んで行こう~!」という風に言われているように私は感じたのでした。

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オープンエアーで南国らしさ満点のコナ空港は、飛行機に乗る直前までハワイの風を感じられる心地よい場所です。

前夜遅くまで大きな出来事と向き合った一行は、身体は疲れているはずなのに、なんだか皆軽やかです。(でも、きっと飛行機の中ではよく寝られることと思います。笑)

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あっという間のようだったハワイ島での時間を振り返って話をしているうちに、搭乗の時間となりました。

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もちろんオープンエアの搭乗口です。笑

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ローカル感満載なのに、JALの直行便は空港に似合わずデカい!(笑)
(個人的には、ホノルルで乗換えをするハワイアンエアの小さくて可愛らしいイラストの飛行機が好きな私です。)

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飛行機はあっという間に美しい島を後にして、青い海の上に飛び立ちました。

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JALの機内食は、ハワイ島就航を記念してなのか、皆が夢中になってお買い物をしていたビッグ・アイランド・キャンディーの美味しいショート・ブレッド(クッキー)がついていたり・・

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ハワイ島の美しい風景をアイシングで描いた、食べるのが惜しいような可愛いクッキーがついていたりと、最後まで楽しませてもらいました。

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そうしておよそ9時間後に(帰りは時間がかかります)成田へと無事降り立った一行は、日本に戻った嬉しさと、ハワイ島を離れて現実に引き戻された気持ちとのはざまで、不思議な感覚を味わっていたのでした。

今回の行程は、ホノルルでの乗継をしない直行便を使ったため、羽田ー成田間でのリムジンバスでの移動がありました。

小松からダイレクトに成田に飛ぶJAL便があれば良いのですが、参加者の皆さんには概ねこの行程は好評でした。(私個人はホノルルでの乗換が好きなのですが、JAL直行便のほうがハワイ島での滞在時間が増えるので、こちらの方が良いのかもしれません。)

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羽田から飛び立つ前に、日本の味を求めてお蕎麦屋さんへ!

ネギがてんこ盛りのネギ蕎麦を頼んでいる人が二人もいて、驚くキツネ蕎麦派の私(笑)

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今回、運転と私のサポートを一生懸命してくれた夫と皆さんとの絆も深まりました。

私にとっても、こんな日がが来るとは感慨深くてなりません。

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最後の最後まで、皆が変容し続けた濃くて幸せな時間の連続でした。

リトリートでの体験は、それを日本に戻ってからの日常にグランディングさせるところからが、実はある意味本番です。

ですので帰国後1ヶ月ほど後に、アフター・セミナーとしてもう一度皆で集まり、帰国後のシェアと更なるシフトを促す機会を設けています。

それまでの期間も、グループ・フォーラムでのやりとりを通して、リトリート中に体験した気づきを更に深め、変化した視点を持って生きることを自分に許可する時間とするのです。

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ハワイはレムリアのエネルギーが色濃く残る場所として、日本人には特に縁が深く、癒され、シフトを起こす不思議なところです。

十数年前の私は、ハワイに行ってリフレッシュすることで、なんとかがんばって生きているようなところがありました。

なのでハワイフリークというような人間で、ハワイにいる時は幸せ、日本では忙しくて息が詰まる、というような体感でした。

しかしある時、当時お世話になっていたリーダーさんから、「恵美子さんは、将来はそんなにハワイに行かなくては~!とならなくなると思うよ。」と予言されたのです。「ハワイでなくても、同じように幸せにいることができるようになるから!」と。

その当時は、そんなことが起こるものかと思っていました。

ハワイにいる時ほど、幸せなことはない!と信じていましたし、ハワイにいる時と日本にいる時のギャップがあまりに大きかったからです。

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しかし今の私は、あの時の彼女の言葉通り、ハワイにいても日本にいても、同じようにリラックスしていて、いつも幸せなのです。

現実的には、当時よりずっとハワイに行く回数は多くなっていますが(笑)、「ハワイに行かなくちゃならないの~!!」と焦ったり叫んだりする気持ちはさらさらなくなりました。

つまり、「ハワイにいる時の自分」と「日本にいる時の自分」にギャップがなくなったということなのだと思います。

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私的に、リトリートの最終目的と言うのは、リトリートをしに行かなくても、普段の生活でリトリートと同じように生きることができるということだと思っています。

つまり、自分に与えられた役割を生きるのではなく、いつでもハートの導きのままに、リラックスして、高い視点からすべてのものごとを見て、魂の喜びに沿った生活をするということです。

その練習をするという機会として、そういう体験をしたことが無い方には、それを実感して頂く場として、そして何より、普段閉ざしていることの多い自分の新たな次元の目と耳を開いて生きることにコミットする場として、リトリート・セミナーが皆さんのお役に立つことが私の願いです。

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今回のハワイ島で共に時間を過ごした仲間との思い出は、私の楽しくて幸せな記憶の1ページとしてずっと心の中に残ることでしょう。

皆さん、ご参加ありがとうございました

そしてここまで、長いリトリートの記録をお読みになって下さった皆様にも感謝申し上げます。ありがとうございました!(いつかリトリートでご一緒できたら嬉しいです。笑)


(ハワイ島リトリート2018 完 )




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