Cerulean Blue (セルリアンブルー)

Believe in yourself. You are loved.

メッセージ

「痛み」を手放さない人達

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人は「痛み」を嫌がるものだと、ほとんどの人は思っていると思います。

確かに、肉体的な痛みが嬉しい人というのは、そう多くは無いでしょう。(一部にそういう嗜好の方はいるかもしれませんが。笑)

しかし、「心の痛み」を愛してやまない人と言うのは、実はとても多いのです。

それは、自己憐憫に陥るための出来事を自分の人生に引き起こし、自分が可哀想であることを味わい、悲劇の主人公になることで人生をドラマチックに体験するという、ある意味中毒のような喜びを味わい続ける人達です。

それはちょうど「悲しい物語」を読むことでカタルシスを得るような感覚に似ています。可哀想な自分を憐れみ、涙し、苦しみ、他人を恨むことで自分を悲劇の主人公に仕立てあげます。

起こる出来事は全て自分が創造した世界であることを忘れ、その責任を放棄し、誰かを恨み、苦しみ、悲しむことで、カタルシスを味わっているのです。

ある意味これは麻薬のような感覚です。苦しい、悲しい、と言いながら、やめられないのです。

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かくいう私自身も、この悲劇の主人公を演じる人生をかなり長い間味わってきました。

それは、ある意味自分の中に握りしめているパターンのようなもので、そのもだえるような切なさや悲しみ苦しみは、自分の人生を彩るものでもあるのです。

何もない平穏無事な幸せな生活よりも、刺激があり興奮する訳です(笑)

自分は可哀想な人間だという感覚に浸ることで、生きている実感を味わうのです。

こうして書かれているのを読むと、なんとナンセンスなのだろう!と思う事でしょう。

しかし、その苦しい喜びを楽しんでいる人は、思いのほかたくさんいます。

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例えば、私の母は、その「痛み」を味わう喜びを80歳になった今でも手放しません。

最初は自分を養子に出した実父を恨み、次は自分の人格を認めなかった義父を恨みました。

その恨みを手放せないまま結婚した後は、夫のせいで自分の人生が破壊されていると主張しました。

自己憐憫の権化と化していた母は、可哀想な自分を主張することで、娘の私の人生を支配しました。

可哀想な親を幸せにしたいと、母を喜ばせることを一番にして、自分自身の人生を放棄して生きてしまった私は、結婚してから自分の人生に母と同じようなパターンを作りだしてしまいました。

「自己犠牲を強いられる私」という自己憐憫のパターンの中で生きてしまった私は、それを次には子供に受け渡してしまうところでした。

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幸いなことに、途中でその甘美な「自己憐憫ゲーム」に気付くことができたおかげで、子供に同じように自己犠牲の人生を歩ませることをせずに済みました。

前述の母は、80歳を超えた今現在でも、この甘美な「痛みを抱きしめる人生」、「自己憐憫ゲームを楽しむ人生」をエンジョイ(!?)しています(笑)

常に誰か「敵」となる人物を自分の人生に作りだし、その人がいることでいかに自分が不幸であるかを嘆くのが、彼女の大好きなパターンです。

数年前に父と別居するようになり、一番の敵がいなくなったら、次は新しい敵を見つけようと、次々に子供達をターゲットにしています。

40年もの間、母の痛みに付き合い、彼女の自己憐憫ゲームに加担していた私は、そのゲームから降りた途端に、新たな「敵」にされてしまいました(笑)

親不孝者のレッテルは、今の私にとっては勲章のようなものだと言えるでしょう。

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「痛み」を愛する人は、決して自分からそれを手放そうとはしません。

それゆえ、その「痛み」さえ持たずにいたなら、決してその人の元を去ることなどない人まで、自分の前から去っていく人生を創りだします。

なぜなら、誰かに愛されて側にいてもらったら、「痛み」を感じることは難しいからです。

こうして悲劇の主人公は出来上がります。

大好きな人に去られて、悲しい可哀想な私・・・それを望んでいるのが自分だとは、何故気づかないのでしょうか?

いつも我慢して虐げられる可哀想な私・・・我慢も、虐待も、自分がそれにNOと言って、そこから立ち去ればよいのです。

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自分の人生を創っているのは、間違いなく自分でしかないのです。

「痛み」を持ち続けることをやめさえすれば、誰でも幸せに満ちた人生を送ることができるのです。

「引寄せの法則」は、楽しい事や嬉しい事だけに働くのではありません。

「痛みを持ち続けて、悲劇の主人公でいたい」という望みさえも、すみやかに叶えてくれるのです。


私は、自己憐憫を持ち続けて悲しみを楽しむ人生には、ほとほと疲れたので、それを止めることにしました。

長年培ったパターンを手放すには、何度も失敗や繰り返しをしてしまいましたが、「自己憐憫の涙は二度と流さない」とかつて私にそれを教えてくれた人に誓ってからは、その頃とは比べものにならない幸せな毎日を送れるようになっています。


痛みを抱きしめる人生・・それが楽しいのなら、存分に味わえばよいのです。

でも、それが苦しくて切なくて悲しくてならないのなら、痛みを手放し、自己憐憫の涙は流さないと決めてみてはどうでしょう?

愛する人達に囲まれて、自分の創造力は幸せな人生を創るために使い、笑いにあふれた毎日を送ってみるのはどうでしょう?


人生が思うように行かない、なぜ自分はこんなに可哀想なんだろう?と嘆いている人に、このメッセージが届くことを心から願っています。

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「優しさ」と「甘やかし」について考える

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一般的には、「優しい」という言葉は、ソフトで穏やかで、耳に心地よいことを言うというイメージがあるような気がします。

「優しい人」と呼ばれている人は、相手の気分が悪くならない言動をしている人、決して相手を怒らせたりはしない人、ぶつかったりはしない人、であることが多いのではないのでしょうか。

しかし実際に「優しい」ということは、相手のことを心から想い、相手に最も必要なことを言ったり、そのように接することだと私は思うのです。


例えて言うなら、子供が欲しがるからと、欲しいだけのジャンクフードやお菓子を与えるお年寄りは、子供にとっては優しいおばあちゃんかもしれませんが、本当にその子に優しいのは、子供の健康の事を考えて、過剰なジャンクフードやお菓子を与えない親のほうだと言えると思います。

それは、子供にとっての「優しい人」は、実は「甘やかす人」でしかない例です。

厳しい親などに育てられている人には、そういう「甘やかす人」も時には必要なのかもしれませんが、そこに逃げ込んでばかりいては、その子供の成長は阻害されると思うのは、私だけではないでしょう。

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実は、これまでの人生で私が受け取った、感謝すべき「優しさ」の半分以上は、聞いた瞬間にはとても厳しい言葉の数々でした。

しかし不思議なことに、その時には頭をが~んと殴れらたようなその厳しい言葉を、呆然とした中でも受け取ろうと努力した果てに得たのは、深い気づきと、その方達からの深い愛情でした。

過去に、私にそういう言葉を発してくれた人は何人かいるのですが、今でもその瞬間の自分の衝撃を思い出すと共に、それを発してくれた人達の、自分がどう思われるかより私のことを考えてくれた、その愛情の深さに感謝の気持ちが湧き上がります。

もし私が、その時にその言葉に反発して、本当に受け取らなければならないことを受け取ることができなかったならば、今の私とは全く違った私になっていたことがわかるからです。

本当にその時々の私は、ギリギリのところにいたのだと、思い返すと冷や汗がでます(苦笑)

見るべき自分の姿を、何より自分自身が目を開いて見て受け入れるというプロセスにおいて、それが必要だったことがわかります。

その時々に頂いた厳しい「優しさ」は、誤解されることを恐れずにそれを伝えて下さった方達からの、勇気ある愛そのものでしかなかったと思うのです。

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しかしその反対に、私にそういう厳しい「優しさ」を与えてくれた人のことを、恨んで悪口を言って、その人から距離をとった知り合いもいます。

その知り合いは、多分とても耳の痛いことを言われたのでしょう。そして、自分がそれを受け入れないことを自分自身が見ないようにするために、それを伝えてくれた人を恨んで悪口を言いふらしたのだと思います。


今、別々の人から与えられたそれらの厳しい優しさを思い出すとき、そのすべてのタイミングが私にとって人生の岐路になっていたことがわかります。

もうご縁のない方がほとんどですが、その時のその方達の優しさは、一生忘れません。

彼らから教わった、相手のためを思って真実を伝えてくれる勇気を、私も見習って生きていきたいといつも思っています。

時には伝わりきらずに、反対に悪く思われることもあるかもしれませんが、それでもその結果に執着しない自分でいたいと願っています。

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子育てにおいても、人生で出会う人達との間においても、いつも自分の深くからやってくる真実・真理と共にありたいと思います。

完璧ではないのが人間ですが、それでも真の「優しさ」を生きることを願い、「甘やかし」でお茶を濁すことはしたくないと思うのです。


自分にも相手にも正直であること。何より、自分自身に正直であること。

そうやって生きる時には、自分にも他人にも「甘やかす」のではなく「優しく」できるのではと、私は信じています。



なぜ人間は、甲羅ではなくて柔らかな皮膚を持っているのだろう?

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『プライドが高い』は『自己価値が低い』ことである事が多い」と銘打った前回の記事に、いつもより多くの反応がありました。

蟹の甲羅、亀の甲羅、ハリネズミの針、貝の貝殻などのように、「高いプライド」で身を守っている人は、その中身が多分人より柔らかいのです。

その柔らかさゆえに、自分を「守る」ものを張り巡らせているのでしょう。


私はたまに、人間の皮膚は何故こんなに柔らかく生まれついているのだろう?と考えることがありました。

鉄骨が落ちてきたらひとたまりもないし、こん棒で殴られたら、あっという間に骨が折れます。

ちょっとした棘が刺さっても痛いなんて、なんか理不尽な作りだな~と思っていました(笑)

でもそれが何故なのか、今はわかる気がしています。

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私達のこの柔らかい皮膚は、自分以外の人と触れ合い、抱きしめあい、互いをしっかりと感じ合うためにあるのではないかと思うのです。

蟹の甲羅のように外側に厚く壁を作っていては、お互いを深く感じ合う事はできません。

子供を作ることもできる性行為などは、究極の触れ合いです。

外側の皮膚で慈しみあうのみならず、互いの内側まで入ることを許可することで、そこに宇宙が生まれ、そしてあちら側の世界からスピリットが下りてくる物質化現象までを起こせるのです。

外側が柔らかいことの素晴らしさを、そこに深い意味があることを、私達は意識的に受け止めてみてもよいのではないでしょうか。

そして、せっかく柔らかい皮膚で生まれてきた私達なのですから、互いを傷つけあうのではなく、自分を防御するのではなく、心を開いて、相手を信頼し、自分を信頼し、愛を分かち合うという人間の原初の目的のために生きてみたいなと思うのです。

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『自己価値が低い』ことには、成育歴や、持って生まれた気質や、発達障害という側面や、さまざまなことが影響しているかもしれません。

しかしそれらは、あくまでも「自己」が、つまり自分が自分を低く認定しているだけでしかなく、自分が思うこと感じることは、自分で変えることは可能なのです。

柔らかな自分の肌に触れてみませんか?

まず、自分が自分の、この無防備な身体を受け入れ、その本当の意味を知って生きると決めてみませんか?


心はあくまでも自分のものです。

肉体は外から傷つけられることはあっても、心は自分が許可を下ろした時にしか傷つかないのです。

例えば、2歳の子供に「おばちゃん、なんでお顔に線がいっぱいあるの?」と聞かれても、「これはね、しわっていうんだよ。」と笑顔で応える人と、むっとする人に分かれると思います。

2歳の子供は単に、見えたことをそのまま聞いただけで、そこには何も悪意などないのに、受け取る側で感じることが違うのです。

「子供って面白い表現するな~」と思う人は笑顔になります。でも、アンチエイジングに励んでいた人は、「私、やっぱりしわが多いのね!」と傷つき落ち込みます(笑)

相手が発した言葉をどう受け取るかは、あくまで自分次第でしかないのです。

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勇気を持って、自分自身をそのまま見つめて、そして心を開いて目の前にいる人と繋がってみませんか。

柔らかい皮膚を持って人間として生まれてきた私達は、お互いの温もりを感じるために、今ここに生きているのです。


前回のハワイ島リトリートで、気が付いたらテーマソングになっていたJupiterの歌詞は、まさにそのことを表していたのだなとも思えるのです。


Jupiter

Every day I listen to my heart 
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながってる
果てしない時を 越えて輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙(そら)の御胸(みむね)に抱かれて

私のこの両手で 何ができるの?
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じて あげられないこと

愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂(しじま)に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに





「怖がり」とは?

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「怖がり」というのは、「変化を怖れる」という事と同じです。

何を怖がっているかというと、自分がこれまで握りしめてきた観念を手放すのが怖いということです。

現在、地球上のエネルギーがどんどん変容しており、私達は昔の重い周波数の時にうまくいった「やりかた=観念」では、この世界でうまく生きていくことはもうできないのです。


例えば、昔は「体罰」というものが有効な子供達への矯正法でした。私の小学校3年生の時の担任は、何か悪いことをした生徒がいたら、クラスの前へ立たせ、「歯を食いしばれ~!」の号令と共に、頬を平手打ちしていました。

それでも、その若い男の先生は、お天気が良いと時々授業を投げ出して外へ遊びに連れて行ってくれるような人だったので、子供からは絶大な信頼と人気を得ていました。

私もその先生のことは大好きでした。なぜなら、平手打ちにも、ちゃんと愛がこもっているのを感じていたからです。


しかし、今の子供達の高い周波数には、もうそのやり方は合いません。彼らを殴ったりしたら、それは、繊細な彼らを痛く傷つけ、それを愛だなどと思う事は絶対にありません。

地球そのものの波動がまだ重かった時にうまく行ったやり方は、もう今では通用しないのです。そこに愛があるとかないとか、ではないのです。

平手打ちは、重い波動の時代の原始的なやり方なのです。(言葉の暴力よりも、肉体的な暴力は、絶対にやってはいけないのです。それは、エーテルを壊します。エーテル体の修復は、とても時間がかかるので、軽やかな波動の人間には、ダメージが大きすぎるのです。)


しかし、その時代にうまくいったからと、今でもそれをやっている年配の人や、その人たちに育てられた人も存在します。

そして、それはもううまくいくことはないので、色々な問題として浮かび上がり、社会問題のようなものにまでなってしまうのです。(例えば、会社などにおいて起こっている「ゆとり世代」と呼ばれる平成に生まれた子供達と、それ以上の年代とのギャップなどです。)

そういった、もう今ではうまく行かないやり方を握りしめたまま、それを手放して新しく機能するやり方を手にするのを怖れているのが、「怖がりさん」の正体です。 必要のない古い観念を握りしめていることで、過去にうまくいったという証拠(実は自分自身にとってはうまくいってないのに、それでもそのやり方に慣れ親しんでいるというだけなのに・・)を手放したくないのです。

それらは、親や社会からの刷り込み以外の何ものでもありません。 何より、自分自身がそのやり方でうまくできなかったことほど、それを握りしめたり、自分の子供や周りの人達に投影したりするのです。
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あなたは、その観念を握りしめていて、本当に幸せなのでしょうか?

自分がうまくできなかったこと、今でもそれができなかったことに罪悪感を抱いていることを、この先もずっと握りしめて、苦しいまま進んでいってもよいのでしょうか? どうせ、それはうまく行っていないのです。苦しさはここに存在しているのです。

ならば、思い切って、そのうまくいかない観念を手放し、自分が自分らしく、心地よく幸せに生きられる「かもしれない」新しい考え方で生きてみてはどうでしょうか?! 「かもしれない」と書いたのは、それをするもしないも、あくまでも自分次第だからです。 自分自身が古い観念を握りしめたまま、新しい視点で生きることをしようとしても、「やっぱり、うまくいかないのだ!」という現実を引き起こしてしまうからです。 なので、その意識を変容させる時には、とても勇気がいるわけです。 うまく行っていない古い観念を手放すと、完全に決めなくてはならないからです。

それはまるでまだ飛んだことのないバンジージャンプをするようなものです。怖くて当たり前だと思います。
こんなことを書いている私自身も、実はかなりの「怖がり」だったことを自覚しています。今でもそれがないとは言えません。 それでも、その怖さを思い切って飛び越え、古い観念を手放す作業を何度か繰り返してきたことで、これまで想像もできなかったような、以前と比べると格段に自由で心地のよい現実を手にしているのは間違いありません。
「怖がり」の自分を楽しんで(!)いた期間が長すぎたことを、今では少し後悔しています。

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もう一つ「怖がりさん」の怖れていることは、今自分が定義している「幸せ」以上の幸せはないかもしれないということです。 何より自分の可能性を狭めて定義しているのは、自分でしかないということを知ってほしいと思います。
今一緒いる友人や家族が、自分が手にする最上のものかもしれないと、勝手に思い込んでいるのです。

そうではありません。 今、自分が本当の自分を生きていると思えない人にとっては、その周りに存在している人々は、あなた自身を映し出している鏡のような存在でしかないのです。 自分を大切に扱っていない人は、あなたを大切に扱わない人としか出会えてはいません。

自分が自分のやりたいことにストップをかけているからこそ、あなたをストップする人達に囲まれているのです。 私達は、自分が想像している以上にパワフルな創造者なのです。自分の人生を、自分が望むように作っているのです。

「怖がり」とは、あえて自分の人生をより軽やかで幸せな方向へと向けることを躊躇している人のことです。 そのゲームを楽しみたいのなら、とことん楽しめばよいのですが、もし「怖がる」ことにもう飽き飽きしているのなら、ただ自分が次のステージに行くと決めるだけでよいのです。 怖がっている自分を楽しみたいなら、「次に行きたい」などと言うのは、嘘つき呼ばわりされるだけです。

とことん自分に正直に生きるほうが、むしろすがすがしいのかもしれません(笑)


結論ですが、「怖がり」というのは、苦しいことをするのを怖れている人ではなくて、苦しいままの場所に居たいのに、それを誤魔化してそこから出たいという人のことだと言えるのではと、私は思っています。(むかついた人がいたら、スミマセン!笑)
「怖がりさん」のあなたも、仲間と一緒にバンジージャンプしてみませんか?笑
一人ではできないことも、魂の仲間に出会うことで共に乗り越えていくことができるかもしれません。心の奥で「行きたい!」の声が聴こえたあなた、お待ちしています♬(飛行機の手配などがありますので、お急ぎください!!)


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『マニュピレーター(操る人)』~それはあなたの心の声ですか?

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『マニュピレーター』・・これは、日本語では「人を操る人」と言う意味ですが、何も犯罪を犯すとか、誰かをだますだとか、そんな物騒な事を意味しているのではありません。

ほとんどの人にとってのマニュピレーターは、親です。

物心つく頃からの洗脳ができる最高の環境(笑!)を手にしている人ですから、マニュピレーターになるにはうってつけです。

マニュピレーターは、「~でなければいけない」・「~をしてはいけない」などと、幼い頃から巧妙に子供の心に刷り込んでいきます。

もちろん、子供の心身を守ったり、お互いが気持ちよく生活するために必要な躾というものは存在するでしょうが、それ以上の親の葛藤や偏見、その子供の魂が望む生き方をサポートする方向性ではない刷り込みをする親はたくさんいます。

そんなことは全くしない素晴らしい親もいるのですが、もしかしたら少数派なのかもしれません。

怖いのは、自分がマニュピレーターに育てられたという自覚がないまま、大人になった自分の人生を、まるで自分が選び取ったように錯覚して生きるようになることです。

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現在進行形で、更なる「操作」を親から受け取り続けている人も多く見受けられます。

何を隠そう(隠れていないかもしれませんが。笑)、私自身は両親、特に母親からの「操作」に本当につい最近まで完全には気づかずいた人間でした。

なぜなら「操作」は、「愛情」という、良く似てはいるけれど全く別物の顔をして、親と自分との間に横たわっているからなのです。

子供時代に「純粋な愛情」(相手に何かを期待する愛ではなく、無償の愛)を受け取っていない人ほど、この錯覚に惑わされたまま、大人になっても親の期待を自分の望みと勘違いして生きてしまいます。

私自身が、そのことに「はっ!」となったのは、ひょんなことでした。

数年前に、もしかしたら日本を出て他国で生きていくことになるかもしれないという事情になった時に、ものすごい解放感を感じた自分がいたのです。

自分でも驚くような大きな解放感だったので、後になって、その時の自分の心の中を探ってみたら、そこにあった一番解放されたかったものは、他の誰でもない実の両親でした。

不謹慎ですが、長い間葛藤を抱えていた姑が亡くなった時にも、悲しみが少し癒えた後に、なんとも言えない解放感を味わったことがありました。

そのどちらも、実は自分自身の心の奥底では、彼らに存在によって自分が自分であるように生きていなかったことを、ちゃんと知っていた私がいたのだとわかります。

姑との死別や、両親と別れて暮らすことになるかもという現実を手にした時に感じたあの軽やかな明るさは、自分からは積極的にできずにいたことが、不可抗力によって為されるための自由になる感覚だったのだと思います。

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私達は、親や社会に刷り込まれて育ちました。「まず人のことを考えて、自分のことは後にしなさい」と。

子供のころ、自分が楽しく遊んでいるおもちゃを、横から「貸して~!」と泣き叫んだお友達がいたら、「お友達にも貸してあげなさい!」と親に言われてきたのです。

そうやって、自己犠牲をすることが尊いと、教えられてきたのです。

なぜなら、親の世代は、そうすることが美徳だという教えが世間にありました。

そうして、親自身が自分を犠牲にして、そのまた親や舅姑に仕えてきたので、それを下の世代にも要求するのです。

やがて親達が年寄りになったら、私達を大切にしろ!と圧力を無言・有言でかけてきます。

まだ年寄りになっていない親であっても、自分たちの価値観を私達の生き方に押し付けてくるのです。

私達は、そういう人達に育てられてしまったので、自分が「操作されている」ことに気付くのはとても難しいのです。

大切なおもちゃで、とことん自分が最初に遊ぶことを放棄することが美しいと勘違いをしているのです。

そうではありません。まず自分を満たすのです。まず自分を喜ばせてあげて心が満たされたら、必ずその後には他の人にそれを手渡すようになるのです。

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マニュピレーター(操つる人)に、自分が自分の心の声でない行動を、無意識に選ばされていることに気付かなくてはなりません。

私が、親から離れる機会を手にするかもしれないとなった時に感じた解放感が、心の声だったのです。

死んでいなくなった姑からの解放感を味わうことに、罪悪感を感じる必要はないのです。

もし罪悪感を感じるならば、生きている時から自由になっておかなかったことを反省すればよいのです。

マニュピレーター(操つる人)に自分の人生を支配されているかどうかは、とても簡単にわかります。

「何かをやりたい!」と感じるのに、あれこれと「できない理由」を考えて行動できないのは、ほぼほぼこのマニュピレーターの幻影が耳元で囁いているのです。

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昔、裕福な方と結婚した友人が、ある時宝石フェアで一目ぼれして、自分のために立派な宝石のアクセサリー(とても値段の高いものです!)を思い切って買いました。

彼女の経済状態からは、それは決して困難なことではなかったのですが、それを後で一人になって手にしたら「お母さん、ごめなさい!」と泣いてしまったと言っていました。

その友人のお母さんは、自己犠牲の権化のような方で、私も何度かお会いしたことがあったのですが、子供や夫のためにすべてを捧げて生きていた人で、本当に優しくて、ある意味「理想の日本のお母さん」といった感じの方でした。

自分のために決してお金を使ったりしないようなお母さんのことが大好きだった友人は、その高価な宝石を買う事にものすごい罪悪感を感じたわけです。(もちろん、お母さんに何かを言われたとかではありません。)

この、一見優しくて素晴らしいと感じるお母さんも、ある意味マニュピレーターなのです。

毒親というには憚りのある、優しいお母さんだったのですが、それでも友人は知らず知らずのうちに、親に「操作された」意識で生きていたからです。


毒親とは、自分のために子供を操る親のことです。

子供の魂の輝きを伸ばすためにサポートする親ではなく、自分のニーズを満たすために、子供をコントロールする親のことを言います。

一番ややこしく、難しいのは、一見「毒親」と見えない「マニュピレーター」かもしれません。

「あなたのために・・」「あなたを愛するから言うのよ」と、愛のふりをした言葉で、実は彼ら自身のために子供を操作しているからです。

もちろんこれは、親のみならず、夫や妻であったり、祖父母であったり、きょうだいであったり、時には友人であったりもします。

あなたが自分自身の心の声を聞くことを阻むことをする外からの力は、操作そのものでしかないのです。

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とことん、自分の心の声を聞いて下さい。

自分は本当はどちらに進みたいのか?自分は本当は何をしたいのか?

誰と一緒にいたいのか?誰と一緒にいたくないのか?


もう地球上の波動が、自分の心に嘘をついたり、見ないふりをしているままでは進めないように変化しています。

何が理由かわからないのだけれど、生きていることにしんどさや苦しみを感じる時は、あなたが「愛されている」もしくは「愛している」と信じているマニュピレーターが、自分の人生に存在してはいないかをチェックしてみるとよいと思います。


こちらも、チェック
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自分の心の声、聞こえますか?
行きたい!と少しでも感じた声を、打ち消してはいませんか?
私達が開催するリトリートは、あなたの魂と繋がり、本当の心の声を生きることを自分に許可するための旅でもあります。
魂の仲間と出会い、最高に自分らしく輝く時間を一緒にすごしませんか?

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メッセージ~皆既月食の夜に~


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1月2回目の満月、そして150年ぶりだという皆既月食(英語ではスーパームーン・ブルー・ブラッド・イクリプス)・・青なのか、赤なのか、はっきりして!という感じですね(笑)

冗談はさておき、今回の満月のエネルギーには結構いろいろと揺さぶられました。

色々な方がこの月食については書いていらっしゃるので、詳細はそちらにお任せしますが、久々に個人的にも、自分の中にある感情の大掃除と言うか、さまざまな揺さぶりを高い視点から見ることが必要だとつくづく思わされました。

もう何年も前に体験していたトラウマ的な感情の傷が、忘れていた感覚と共に浮かび上がって来て、手放したと思ったパターンの中にうっかりと入りこみそうになったりもしました。

しかしそれは、決してまったく前と同じなのではなくて、まるで上昇するスパイラルのように、以前と同じようには見えるけれど、もうそうではないことを実感するためにやってきたような感覚でした。

それはまるで、『人間のふりをするゲーム』を散々やって来た自分が、そのゲームをとうとう終了させて次へ行くための試験のような、改めて過去を振り返り、もうそれらは終わってしまったことを確認するような、実に不思議な感覚を伴う体験でした。



皆既月食の最中に、一年ぶりのメッセージのブログを更新しました。(なんだか急に書きたくなったので。笑)

『本当の自分を思い出すためのメッセージ』はこちらです。
         ↓
 メッセージ~2018年 皆既月食の夜に~





魂のパートナーに会えないとき

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生まれる前に契約してきたパートナーシップというものが存在するそうです。

その相手に巡り会わないうちは、心の中に空いた穴がどうしても埋まらない感じがするという類のものです。

結婚相手がそうでないと感じる時には、ないものをずっと探し続けるような心境のまま、満たされない関係性を続けてしまいます。

潔く離婚するならば、まだ独りぼっちでその穴を感じていられるのですが、結婚生活を続けたままでいる時は、その空しさゆえに相手を責め、自分を正当化することで苦しさから逃れようと、更なる苦しみの場所に自分を置き続けます。

先日、ザ・グループがそういうことが何故起こるかについて話をしてくれました。


私達はスピリットの時に、人間の身体に入ってからのさまざまな魂の計画と契約をあらかじめ決めています。

その中にパートナーシップについても契約があるのですが、時には生まれた次元が別の場所であることがあるそうなのです。

同じ地球に生まれ落ちているはずなのに、生きている次元が違うのです。

深く結びついた魂たちは、互いの気配を感じ取ります。そしてその存在を求めます。

するとそのエネルギーによって、実際に側にいる別の人間が代わりにそれを受け取って、その人に求愛してしまうのです。

しかしいずれ、それは求めていた魂ではないことに気付きます。

そして、悲しくも一時の恋愛感情や愛が醒めていくのです。


しかし、ザ・グループが話してくれたある魂のパートナー達の話は、本当に深く心に沁みました。

私自身が通ってきた心の変遷と同じだという事を感じました。

違う次元にいる魂のパートナーとは、この次元の身体を持って出会う事はできないのです。

それを受け入れて、身体で触れ合い愛を分かち合うことのできる相手を人生に受け入れることを決める事で、私達は限られたこの一生をより深く、愛を体験しながら生きることができるのです。


私はかつて、とてもリアルでエネルギーの体感を伴った夢を見たことがあります。

私の魂のパートナーに出会い、その存在に包まれる夢でした。

その圧倒的な愛に満たされた感覚は、十数年経っても忘れることができません。

それまで、夫が自分にとってそういう存在ではないのではと苦しみ悩んでいた私でしたが、夢の中の存在に「夫と子供達が私を探して呼んでいるから、行くね!」と答えて夢から醒めてから、心の中の穴が埋まったことを覚えています。

今回ザ・グループの話してくれた事と同じだということが直感的にわかりました。


このお話は、次回のBeacons of Lightの翻訳として、皆さんにシェアできると思います。

時には、契約がスムーズに履行されないこともあるのです。

手に入らないものを追い求めて、今この時、目の前の幸福を自分から遠ざけることは空しいことなのです。


あなたの目の前にある、あなたを幸せにする現実をしっかりと見つめて下さい。

身体を持って触れあうことができる相手と、愛と喜びで繋がって下さい。

たとえ魂のパートナーと今世で出会う事ができないとしても、その存在は決していなくはならないのです。

あなたが選んだ道筋で出会っている人々と、最高の愛を分かち合う人生を送りあうことが、元々のあなたの計画なのです。














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