手放したいと思っていたのに、いざ手放す段になると突然襲ってくる不可解な感情に驚くことがある。

断捨離ストーリーではよく聞かれる話なのだけれど、自分自身にそれが起きるとやはり動揺する。


最初にモノでそれが起きたのは随分前で、そのときは「断捨離」ではなくて「ガラクタ捨てれば自分が見える」を読み、子供達が育ってもう必要なくなった絵本をお隣の坊や達に差し上げたときのことだった。

長女が大好きで飽きるほど繰り返し読まされた「ノンタン」。当時の私はその漫画チックな絵本をちょっと馬鹿にしていたのだけれど、娘が好きだから暗記するまで毎日読んだものだった。

その日お隣に絵本を運び込み、家にひとり戻った瞬間、突き上げるようにこみ上げてきた悲しみに声を出して私は泣いてしまった。

それは多分、子供達がべったり私にくっついていたあのうっとおしくも幸せだった日々が、もう思い出の彼方にあることを、初めて認識したからだったのではと思うのだ。


「断捨離」を学んで実践するようになって、私達がどれほどモノに自分の思いを乗せ、あるいは投影させて生きているかがよくわかるようになった。


そこにあるモノは、自分を証明するモノなのだ。

証明するモノがないと自分は自分を認められないから、モノを手放すのは辛いのだ。



私が現在している仕事は、自分が所有している建物の中での仕事である。
つまり、仕事というソフトをささえるモノがあり、それは私が望んでやっと手に入れた大切な「モノ」だ。

その「モノ」を、来春大学を卒業する娘に譲り、彼女のやりたいことに使ってもらおうかという案が浮上した。


最初は驚いていた娘だったが、次第に彼女の中からいろんなアイディアが沸いてくるらしく、目を輝かせてそのことを真剣に考え始めるようになってきた。

私はといえば、今の仕事を徐々に手放し、本当に自分がしたいと思っていることをしようと思っていたので、ある意味こういう流れは自分が望んで引き寄せたものなのに、いざそれが具体的になろうとし始めると、思ってもみなかった喪失感が頭をもたげてきている。


これには少々驚いた。

嫌だ嫌だと思っていたことさえあるのに・・・。
これさえなければ私はもっと自由なのに、と思っていたのに・・。


やはり私も「モノ」によって証明を求め、「モノ」が作り出すステータスのようなものに執着があったのかもしれない。


これも、断捨離の新たなステージだと思えばよいのだろうなと思う。

その「モノ」を手にしたときには、私にとって最高の「モノ」であったのは確かだし、それによって生きる喜びも苦しみも体験した事は、私の人生の宝物なのだろうと思う。

しかし、今というこの瞬間に、それはもう過去のものとなり、その「モノ」に最もふさわしい人が現れ、私はそれを手放すことによって次のステージに行くのだろう。


自分が存在するのは、常に今この瞬間であり、それを証明する必要性も必然性もないのだということを、改めて肝に銘じようと思うのだ。




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